きょうのBSTBSの『報道1930』は米大統領のジョー・バイデンのアフガニスタン撤退を誤算だと非難していた。出席者は、前統合幕僚長の河野克俊、アメリカ政治学の中山俊宏、中東調査会研究員の青木健太である。
アメリカが20年近く無意味な戦争をアフガニスタンで続けていたのを、バイデンがきっぱり戦うのをやめてどこが悪いのか。彼は、闘う意思のないアフガニスタン政府のために、アメリカの兵士をこれ以上死なすわけにいかない、と言った。私はまったく正しい判断と思う。
河野克俊や中山俊宏や青木健太や松原耕司がタリバンが悪でやっつけるべきだと思うのなら、義勇軍を結成して、死ぬ覚悟でアフガニスタンにのりこみ、自分らが闘えば良いではないか。
BS-TBSだけでなく、新聞を含むメディアは狂っている。タリバンが悪だから、アメリカは戦えというのは、まったくおかしい。アメリカが20年間戦ってタリバンを潰せなかったのだから、タリバンが生き残ったことに何か理由があろう。その点を考察すべきである。
1週間前の8月17日の朝日新聞は、9面に『アフガン市民不安と怒り』という大見出しをつけていた。しかし、記事のなかには、どこにも「怒り」という言葉がない。「不安」「悲しみ」という言葉があるだけである。「怒り」という見出しをつけた朝日新聞の編集委員の頭がおかしい。
記事に書かれているのは、アメリカの後ろ盾で20年間送ってきた生活が失われることの「アフガン市民」の不安である。
私は子ども時代から「市民」という言葉に違和感を感じた。労働者とか農民とか商人とか職人とかいう言葉には実感がある。「市民」には実感がない。せいぜい、「サラリーマン」しかイメージできなかった。「サラリーマン」とは、安月給で働いているのに、ストライキもせず、上司の目の前では、一生懸命に働いているフリをする意気地なしだと思っていた。
ところが、東京に出て大学にはいると、「進歩的メディア」は「市民」がすばらしくて、「労働組合員」は時代遅れのように言う。とっても違和感を感じた。
妻の要求もあって、私も「サラリーマン」になり、本当に一生懸命働いた。退職してからはじめて専門外の本を読むようになった。そして、「市民」とは、古代ギリシアの市民のことか、近代のブルジョアのことをいうと私は知った。両者に共通するのは、じっさいの政治に関与して、自らを統治していることである。
また、日本で使われている「市民」の多くはブルジョア(burgher, bourgeois)の訳であることを知った。エーリヒ・フロムは、『自由からの逃走』(みすず書房)のなかで、ブルジョアの語源は城壁のなかに貴族と共に住む都市の住人のことであると書いている。そして、近代のヨーロッパ社会で、没落する貴族に代わって、政治の実権を握った新しい特権階級のことをそう呼ぶのだ。決して、「サラリーマン」のことではない。
振り返って、朝日新聞の大見出しが「アフガニスタン人」や「アフガニスタン国民」ではなく、「アフガン市民」となっていたのも意味があるように見える。
メディアは、アメリカ政府が、アフガニスタンの「民主主義」や「女性の人権」のために、タリバンと戦争したとか言っているが、そんなものはウソである。2001年9月11日の同時多発テロ事件へのアメリカの復讐である。アルカイダを掃討した段階でアメリカが戦闘を終結させればよかった。そうできなかったのは、アメリカの国内政治の問題である。共和党や民主党が大統領選や国会議員選に勝つために、アメリカの若者を戦地に送り続けたのである。
アフガニスタン人の人権は、アフガニスタン人みずからの時間をかけた努力で勝ち取らないといけない。アメリカの兵士の投入とアメリカからの物資とドルのバラマキで勝ち取るものではない。
いま、日本からアフガニスタンに、日本人退避のために自衛隊輸送機2機を派遣したという。日本人は退避する必要のある悪いことをアフガニスタンでしていたのだろうか。私はそうでないと信じている。日本人はアフガニスタンにとどまり、戦争終結に伴うアフガニスタンの復興にかかわるべきだと思う。それが日本政府がとるべき誠意だと思う。
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