私が、イスラエル・ガザ戦争を契機に、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源(THE ORIGINS OF TOTALITARIANISM)』を読み始めて1カ月以上たっている。そして、あと、1カ月読みつづける予定である。
本書は、とても難しい本である。あまりにも難しいので、仲正昌樹の『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)を図書館から借りてきた。『全体主義の起源』を読解する助けにしようと思ったからである。
しかし、仲正の本の序章が「『全体主義の起原』はなぜ難しいのか?」とあるのに、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を理解するのに役立たたない。何か、仲正がドイツ留学で習ったことを受け売りているだけのように見える。彼は、本書の本当の難しさに言及していない。
まず、アーレントはドイツ語圏の著作者である。ドイツ語は一文がやたらと長い。関係代名詞を多用する。屈折した文章構成が多い。それを翻訳で読むのだから、言語脳をしていない私は、文章を書き写して、彼女が何を言いたいのか、頭をひねるしかない。ドイツ語と日本語は相性が悪い。
それに加え、ヒトラーやスターリンとほぼ同時代の彼女は、非常に細かな事実までを書きつづっていて、突然、断定的に、一般的な法則のように、何かを主張する。そして、その定言が相互に矛盾しているように見える。彼女は、反ユダヤ主義に怒っていると同時に、ユダヤ人が単一でなく問題行動もあるとことを指摘している。さらに大衆が嫌いで統治者の視点で書いている。
仲正は、彼の本の中で、アーレントの個人的背景を語っているが、重要なポイントを見過している。彼女は東プロイセンの裕福なユダヤ人の出であることである。ケーニヒスベルク(現在ポーランド領のカリーニングラード)の商人だった彼女の祖父は、ユダヤ人コミュニティのリーダー的人物で、ユダヤ教徒の改革派だった。
アーレントの『全体主義の起源』にプロイセンがやたらと出てくるのはこのためである。本書の国民国家、帝国主義国家、全体主義国家の歴史展開はまさにプロイセンの歴史である、と私には思える。
プロイセンはまた特殊な位置にある。ヨーロッパの東、リトニア、ポーランド、ウクライナ、モラヴィアは多数のユダヤ人が住むスラブ語圏である。貧しいユダヤ人が多数いた地域である。そこに離れ小島のようにあるのが、ドイツ語圏の東プロイセンである。
仲正は、「全体主義」というのは近代の個人主義の問題を解決するための当時の新しい思想として出てきたと指摘する。これは、私が気づいていなかった重要な視点である。
仲正の指摘で、『全体主義の起源』を読み直すと、アーレントは思想的な議論、哲学的な議論をまったく避けている。彼女が言及する人物はほとんど政治家である。近代のリベラリズムの租、ジョン・ロックについて全く言及されない。また、『自由論』を書いたジョン・スチュアート・ミルも言及されない。いっぽう、ミルの父親のジェームズ・ミルは政治家だったので言及される。
アーレントは、大量の人を殺さなかったのいう理由で、ファシストのベニート・ムッソリーニを全体主義者から外す。全体主義運動は、大量の人を抱えた国でないと、人を殺しつつづけられないから、ドイツとロシアでしか不可能だったと言う。ナチズムと共産主義が全体主義だと言う。この論法だと、インド、中国、アメリカで全体主義運動が起きることになる。
アーレントの両親は社会民主党の党員であった。アーレント自身はシオニズム運動にも参加している。当時のドイツの社会民主党はマルクス主義に奉じるものが多かった。しかし、彼女はマルクス主義やシオニズムのイデオロギーに言及することはない。
結局、アーレントは近代の反ユダヤ主義を、イデオロギーとしてでなく、政治的社会的現象として、詳細に大量に書き綴っただけではないか、と私には思える。そうだとすれば、彼女の『全体主義の起源』を資料として読み取り、それを再構成して、「全体主義とは何か」に自分で答えなければならない。ここに、アーレントの『全体主義の起源』の難しさがある。
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