NPOで高校3年の子が、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』(ダイアモンド社)の本を買って読んでいる、と言ったとき、私は、つい、うっかりしてネガティブなことを言ってしまった。その子を傷つけてしまった。
この本の副題は『自己啓発の源流「アドラー」の教え』である。
私はアドラーが好きでない。数年前に、NHK Eテレの『100分de名著』で、岸見一郎がアドラーの著作を解説するのを聞いて、子どもの悩み解決に使えるかもと思い、アドラーの著作を読んだが、使えないというのが私の判断だった。アドラーは攻撃的である。優秀な子どもや強い子どもには向いているだろうが、そのどちらでもない子どもたちには向いていないと感じて、そのままになっていた。
私のNPOにくる子どもたちの ほとんどが本を自分で読めない。高校3年生の彼が、お金を払って自己啓発の本を読むだけでも素晴らしい。彼の話を丁寧に聞いてあげれば、彼の心の成長に役立ったであろうし、私にとっても楽しい心の交流ができただろう。本当に私は軽率だった。
その日、『嫌われる勇気』を図書館に予約した。予約順位は66番だったが、横浜市の図書館に56冊あるので、きょう、予約25日目に手に入った。出版されて6年半がたっているにもかかわらず、すごい人気である。
表題の『嫌われる勇気』は、「嫌われることを恐れない勇気」の意味で、「嫌われろ」という意味でない。他人の意思でなく、自分の意志で動く「勇気」を持とうということである。自分の意志で動くには「勇気」がいるということを認めているのだ。
岸見一郎・古賀史健は、アドラーの毒を弱めて、弱い人間でも自己啓発できるようにしている。結局は普通のことを言っている。わたしは、この「普通」の自己啓発には、賛成である。
ただ、本書のはじめのほうは、価値の転換を引き起こすために、ちょっと極端なことを言っている。「大声を出すために、怒った」という考えには無理がある。
人間の行為は、すべて目的がある、あるいは、目的をもてという教えは、強い者の考え方である。人によっては、そういうことをすると「うつ」になったり、強迫的になったりする。自分が精神的に追い詰められなくても、人を追い詰めるかもしれない。自分は無理をしないし、他人にも無理させないのが、良いと思う。
人間の脳には、統合された自己というものがあるわけではない。脳全体の多数決で自己が維持されている。したがって、意識的に自分を引っ張っていこうとすると、意識的に動けない自分との争いが生じ、動けなくなるかもしれない。
本書によって、自分の劣等感の本質を理解し、不要な自己嫌悪を棄て去ることができれば、岸見一郎・古賀史健のねらいの半分が達成したのでは、と思う。また、劣等感に陥る要因に、他人との競争意識がある。競争は不要だという指摘も、納得していただけると、それだけ、生きるのに楽になる。
私は運動神経が極端に鈍い。体育の時間にできないことがいっぱいある。おかげで、同級生に愛された。秀でていないと人に愛される。劣っていることは、悪いことではない。劣等感は不要な感情だ。
また、上下の人間関係でなく、横の人間関係を作れというのも、人生を楽しくする本書の実践的な知恵である。
本書のはじめの教条的部分は、そういう考えもあるのかと、軽くいなし、後半の普通の部分をゆっくりと読むのがいいと思う。
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