猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

父性の復権、父親の息子殺し、河合隼雄

2021-08-14 23:48:40 | こころ

きのう、図書館で たまたま のぞいた河合隼雄の『中空構造日本の深層』(中公文庫)の一節

「今日(昭和56年5月3日)も朝刊を見ると、家庭内暴力の息子の行為に耐えかねて、息子を殺してしまった父親の記事が出ていた」

がとても気になり、きょう一冊を返して、本書を借りて生きた。

本当を言うと河合隼雄が嫌いである。ユングの妄想を日本で広めているの気にいらないのである。しかし、それ以上に、「家庭内暴力の息子の行為に耐えかねて、息子を殺してしまった」がとても気になったのである。

本書は12のエッセイからなる。気になった一節をふくむ『中空構造日本の危機』の要旨はつぎのようである。

「父性」の弱さが最近指摘されることが多いが、日本の精神構造は、もともと中心となるものがなく、いろいろな考え方のバランスでなりたっている。その中空に昔の「強い父」「恐い父」を復権させよというのでは、日本の「中空均衡型モデル」をくずすだけで、政治を誤った方向にもっていく。国際交流の激しい現在の日本に必要なのは、昔の「父性」ではなく、西欧型の父性「合理的に思考し判断し、それを個人の責任において主張する強さ」で、日本社会に「意識化の努力」を提起する。

結局、「家庭内暴力」の話は、敗戦後、家長型の父性が弱くなり、バランスが崩れたという問題提起に使われただけである。

河合が「父性」「母性」をステレオタイプ的に捉えている。

《母性はすべてのものを全体として包みこむ機能をもつのに対して、父性は物事を切断し分離してゆく機能をもっている。》

女が情動的で、男が理性的だというのはウソんこである。偏見だ。

宗教に関しても生半可である。

《唯一の中心と、それに敵対するものの存在という明白な構造は、ユダヤ教の旧約における、神とサタンの関係に典型的に示される》

《キリスト教神話のような唯一絶対の男性神を中心とする構造》

これも自分で聖書を読んだというより、誰かの受け売りだろう。この時代の知識人は西洋文化への劣等感が強く、生半可の知識で、日本文化を持ち上げるものが多い。

さて、冒頭の事件はネットで調べると、5月3日午前3時に父親が高校に入学したばかりの15歳の息子を犬引き綱で締め殺した事件である。東京地裁で、11月30日に懲役3年、執行猶予5年の判決が言い渡された。この事件では母親が息子の激しい暴力の対象となっている。

「これくらい友達からやられている。お母さんにやらなければ、誰にやるんだ。僕より弱いもので、女の人にやるんだ」(中学2年後半)

「おれはむりやり転校させられた。お前たちの犠牲だ。」(中学3年)

「おれも分からないけれどいらいらするのだ」(中学3年)

「こいつは本当に言うことを聞かない。殺してやりたい。殺してやる。」(殺害の前日)

「お父さん、何するんだ」(最後の言葉)

残された抗議文

「私がお母さん、お父さん話し合いをしたいのですというと、父は笑って話を聞いてくれないのです」

判決文から、

「助けてほしかった父の手によって15歳の短い人生を終えなければならなかった××の心情は哀れである。」

執行猶予になった理由は、当時、父親と母親が、国立小児病院精神科医や都立松沢病院や世田谷教育委員会や北澤警察署に相談していること、また、家庭内暴力に身心尽き果てたことを考慮してかと思われる。当時の精神科医や教育委員会や警察署は、家庭内暴力に対処する能力を持ち合わせていなかった。

つぎの判決文に、河合が指摘するような「父権」の偏見がにじみ出ている。

「被告人は、妻や義母に対する××の暴力を知るや××に注意したが、××が直ちにそれを何倍かにして妻や義母に仕返しをしたことから、被告人は××に対し父親としての断固たる態度をとることを諦め、息子の気持ちを理解しようとする態度に終始した。このような被告人夫婦の態度が××の家庭内暴力に油を注ぐ結果になったという見方も十分に成り立ちうると思われる。」

「そして被告人が息子に対してもっと父親として毅然たる態度を示していたならば、あるいは本件は別の経過をたどっていたかもしれない。」

ひどい判決文だと思う。河合には、新聞記事の記憶だけでなく、判決文を見て、「毅然とした父親」像を批判してほしかった。

なぜ母親だけを執拗に暴力の対象にしたのかで、まず私が思うのは、大卒で主婦業をしている母親は息子をどう教育していたのだろうか ということである。理性的な態度で息子とむきあっていたか ということである。

私のNPOでの経験からすると、知的には問題なく、社会的にあるいは精神的に問題を抱える男の子は、小学校4年から6年にかけて、母親とは何だろうと思っていたようだ。母と息子だけの環境がつづくと、幼児に対するように、母親は息子に絶対的暴君としてふるまう。すなわち、対話がなく、あれやこれや、息子に命令しまくるのである。

その状態がつづいたまま、外部からのいじめなどが発生し、強いはずだった母親が助けてもくれないと、男の子は母親を憎むようになる。母親は保護者でなく暴君であるだけだ、しかも世間に媚びている、弱虫だ、と息子は思うのである。

本件では、中学2年でそれが爆発したと思われる。また、中学3年で不良グループにはいったと思われるが、グループからの切り離しには、十分な親の保護とケアが必要である。息子の立場を理解していないような発言を母親はしている。母親と息子の間には加速度的に互いの憎しみが成長している。

父親は息子の話を聞いているように言うが、しかし、登校を強要している。聞いているのではなく、息子の抗議文のよると、笑って聞き流している。

では、どうすればよいか。

小学4年から6年にかけて、男の子が反抗的になったと気づいたとき、自立した大人としての対応に変え、母親は積極的に息子の自立を促す。また、母親、父親のそろい踏みで、この不条理な社会を生きていく強さを受け継いでもらうよう、思想的な対話をする。

それが手遅れになったら、それでも、遅ればせながら、対話を始めるしかないのだが、その前に、家庭内暴力を終わらすことである。暴力の対応は警察を呼ぶか、退避することである。どちらの場合も、愛しているとのシグナルを送る。

暴力がなくなってから対話を始めるが、現状の世界を両親が弁護し、息子を攻撃しだしたら、対話にならない。たとえば、理由を述べずに登校せよでは、対話ではない。

判決文を読むと、両親は当時の世間に媚びているように思える。双方の価値観が変わらなければ、対話でない。

最後に「中空構造の日本」は、昭和の文化人の戯言である。河合隼雄は本当にバカである。



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