猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

団体行動を取らない子どもたちの人権を守れ

2019-03-17 20:25:21 | 奇妙な子供たち

スティーブ・シルバーマンは、自分の本にタイトル『NeroTribes: The Legacy of Autism and t he Future of Neurodiversity』をつけ、風変りな子どもや大人の人権を擁護している。タイトルを日本語に訳すれば『ニュロー諸族:自閉症の神話とニュロー多様性の未来』となるだろう。
残念ながら、講談社の翻訳本のタイトルが『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(ブルーバックス)となっており、中身の翻訳の誤りもあり、著者の意図を読み間違うかもしれない。

シルバーマンだけでなく、日本でも、山登敬之、中川信子、井上祐紀らが「発達障害」の子どもたちをマイノリティと名づけ、平均からずれていることがなぜ悪いのか、人権を守れ、と声を上げている。

私も、「発達障害」だけでなく「知的能力障害」を含めて「神経発達症群」の子どもたちや大人の「人間としての権利」を守るべきと考える。私の要求していることは、風変りな子どもや大人にも敬意を表し、良き隣人として認めよ、という単純なことである。

私が子どもから大人になる頃、日本の社会は個性の尊重を訴え始めていた。日本は、個性を認めない集団主義的な風土だから、独創的な研究が生まれないのだと言われた。
そのとき、日本は「ニュロー多様性」を受け入れるかのように見えた。実際、そのおかげで、私は覚えることが大嫌いなのにもかかわらず、受験勉強せず、高校に進学でき、大学に進学でき、大学院に進学できた。
大学の3年生のとき東大闘争、全共闘運動が起きた。そして、全共闘派の大量逮捕と、企業や大学からの締め出しで、日本の社会は右旋回を始めた。個性を否定し、集団行動と規律を重んじるようになった。

今の、空気を読む社会は、おかしくないか。
NPOで子どもたちと接していると、絵を描く子と描ない子がいる。絵を描くということは楽がき、自由に遊ぶことである。描ない子がいるのは、失敗を恐れ、踏み出せないから、である。「知的能力障害」の子どもも、叱られたり、笑われたくないのである。
近所の大型商業施設では、閉じた店舗の前で、近くの各幼稚園の子どもたちの絵を貼りだしている。おかしなことに、幼稚園ごとに同じタイプの、同じ描き方の絵になっている。個性がないのである。

私のNPOで担当していた、支援学校高等部の子は、学校の絵画クラブに入ったが、自由に描かせてくれないと、今年部活を辞めた。

私は、中学高校と、美術の授業で、黒い太陽、赤い太陽、青い太陽、爆発する太陽を時間内に10枚以上描きあげ、みんなに天才だと言われ、有頂天になっていた。
嫌いな科目は、日本史など、白紙の答案を出してもとがめられなかった。年号なんて、基準が変われば、変わる数字でないか。覚える科目なんて、やっていられるか。

「ニュロー多様性」は、ひとりひとりの個性に敬意を払うことである。50年前は今よりも個性が尊重されていた。


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