「アインシュタインはものを考えるときに言語をもちいなかった」と小平邦彦は『怠け数学者の記』(岩波現代文庫)に書いている。小平は、数学のノーベル賞とも言われるフィールズ賞を最初にもらった日本人(1954年受賞)で、 1915年に生まれ、1997年に死んでいる。
「言語をもちいない」、たぶん、小平も、そうであったが、自分だけがそうなのか、気になっていたから、生前、わざわざ、勝ち誇ったように、それを書いたのだろう。「オレは異常でない」と。
小平によると、フランスの数学者ジャック・アダマールの『数学における発見の心理』の付録に、そう書いてあったとのことである。
アインシュタインがアダマールに宛てた手紙を、小平が、つぎのように要約している。
「私の思考の機構において言語が何等かの役割を演じていると思えない。思考の要素として働くものは自ら再生し結合する或るイメージである。このイメージの結合の戯れ――言語と記号による論理的構成以前の結合の戯れ――が創造的思考の本質的な特徴であると思う。」
言葉の遅れがあったアインシュタインが、中学になって、代数が出てきてはじめて、数学が好きになった、と、私も、どこかで読んだ記憶がある。
小学校の算数から、言葉による理解や、文章題を、とり除いたらどうだろうか。言葉が話せない子にも、算数が楽しめるものになるのではないか。
実際、小学校のとき、算数の文章題が嫌いな子が、中学校になって、文字式がでてきて、言葉がいらなくなると、数学が好きになることがある。
ところで、蛇足だが、小平が引用しているこの本の題名は正しくない。本当は『数学における発明の心理』(みすず書房)である。原著のタイトルも、“The Psychology of Invention in the Mathematical Field” (Dover, 1954)である。「発見(discovery)」ではなく、「発明(invention)」である。
小平の「発見」と「発明」の勘違いには、理由があると思う。数学は発明するものではなく、すでにあり、発見するものである、と、彼は信じていたので、アダマール大先生が「発明」と言うはずがない、と考えたのだろう。
しかし、「発明」とは、すでにあった自然のしくみを、人間社会に役立つよう、利用することをいう。だから、数学が人間の思考に先だってある、ことを、アダマール大先生が否定している、とは思わない。
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