猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「愛する」は日本語になっているか

2019-06-01 23:08:29 | こころ


田川建三が「キリスト教が愛の宗教ではない」と言っていたと思い込んでいたが、『キリスト教思想への招待』(勁草書房)をもう一度読み直して、私の誤りだと気づいた。

しかし、彼が「キリスト教が愛の宗教である」とも別に言っているわけでない。わかりにくい言い方をしている。章の見出しも「やっぱり隣人愛」としている。

問題は、「愛」という言葉が、私のような昔の人間にとって、自然な日本語になっていないからだ。

山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)も、『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書)で、「愛する」という語に疑問を投げかけている。『マタイ福音書』5章44節の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(新共同訳)である。彼は、敵をどうして愛せるのか、と悩んだという。

そして、山浦がたどりついた結論は「愛する」とは「相手をだいじに思う」ことである。

実は、『ルカ福音書』は「愛する」という語をいろいろと言い換えている。6章27節では「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(新共同訳)、6章35節では「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」(新共同訳)とある。

すなわち、「親切にする」「ひとに良いことをする」「お金を貸す」ことが「愛」という情動からくる行為と言ってる。

山浦の悩みに戻ると、彼の率直な本音では「憎いひと」に「親切にする」ことができても、「愛する気持ち」が湧いてこないというのだ。

これは「愛」というのは、もともと、ヘブライ語“אהב”でもギリシア語“ἀγάπη”でも幅広い感情を指すからだ。日本語では、それにあたる言葉がないから、聖書の翻訳にあたって、中国語の「愛」を借りたのだ。

諸橋轍次の『大漢和辞典』(大修館書店)によれば、「愛する」とは「いつくしむ」「めでる」「あはれむ」「なさけをかける」「したしむ」「きにいる」「したう」「こいする」「おしむ」の多様な意味がある。面白いことに同じような用法が聖書で見出される。日本語だけに対応する言葉がなかった。

マタイ派は大袈裟な物言いをするから、『マタイ福音書』5章44節の「愛する」は、山浦が困惑するような意味での「愛」だったかもしれない。

そして、田川建三の問題意識に戻ると、イエス・キリストは「愛せよ」を教えとしたかは、疑問符がつく。まず、「愛する××さん」という形容詞的用法は、決まり文句であって、教えでもクソでもない。

「隣人を愛せよ」というのは、新約聖書に頻繁にみられる教えではある。旧約聖書の『レビ記』19章18節にもとづく。この「隣人を」というのは、ヘブライ語からギリシア語に翻訳されたときに生じた誤解で、ヘブライ語では、単に「だれかを」という語であった。パウロはこの言葉がきにいっていたが、イエスはどうだったかはわからない。

『ヨハネ福音書』は「愛せよ」という言葉にあふれているが、ヨハネ派のなかで互いに結束して助け合え、という意味合いが強い。

日本語にもともと「愛」という言葉がなかった、としたが、人間の情動は言葉に先立つものである。とすると、ヘブライ語、ギリシア語、中国語で表される「愛」の情動が、日本人にもあるはずだ。

何かを選択するときの、これが好きだと思うこころの状態、だれかを思い浮かべるときの、一緒にいると幸せだと思うこころの状態、弱いものや はかないものを見たときの、守ってあげたいと思うこころの状態、手放したくないと、こだわるこころの状態、これらは誰にでもある情動だ。手放したくないという執着心以外は、こころよい情動である。

日本人にも「愛」の情動があるなら、もしかしたら、私だけがきづかないだけで、「愛」がすでに日本語になっているかもしれない。


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