猫じじいのブログ

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宇野重規のすすめる田中拓道の『リベラルとは何か』

2021-02-27 22:57:00 | 思想
 
予約して1か月はかかると思っていた、田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)が、たったの2週間で図書館に届いた。きょう、早速、図書館に行き借り受けた。
 
読もうと思った動機は、宇野重規が朝日新聞の書評欄につぎのように褒めていたからだ。
 
〈本書の最大のメリットは、この言葉を明確に絞り込んで使っている点である。〉
〈リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい。〉
 
いま、パラパラとながめるように本書を読んでいるのだが、面白くない。本書を読むと「リベラル」を切り捨てたくなる。田中拓道が本書を中産階級や市民(ブルジョアジー)の視点から「リベラル」を書いているからだ。
 
彼は、「現代のリベラル」を、「価値の多元性を前提として、すべての個人が生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」とする。
 
「政治思想と立場」というとき、この「政治」は「統治」になりがちである。本書は、統治の立場からマクロ経済学を論じている色彩が強い。
 
バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)で、「哲学上の自由主義 (Philosophical Liberalism)」という章をわざわざ作っている。その冒頭につぎのようにある。
 
〈初期の自由主義(Early liberalism)は、イングランドとオランダとの産物であり、ある種のはっきりした特徴を持っていた。それは宗教的寛容(religious toleration)を代表していたし、またプロテスタント的ではあったが、狂信的なタイプではなくてlatitudinarianであり、宗教戦争をバカげたこととみなしたのである。またその自由主義は、通商と産業を高く評価し、君主や貴族よりも新興中産階級に好意を寄せ、財産権にはかり知れない敬意を払った。〉
 
私は、「寛容」という言葉に騙されて、「新興中産階級に好意を寄せ、財産権にはかり知れない敬意」の部分を軽く考えていた。田中の「現代のリベラル」の定義は、「寛容」が「価値の多元性を前提」に置き換わり、「機会の保障」が加わり、「財産権の敬意」に「国家が一定の再分配」が加わったものである。
 
宇野重規の書評で、「再分配」という語に非常に気になったのだが、本書を読んでその危惧が正しかったと思う。「現代のリベラル」は、「共産主義」を抑え込むために、貧乏人の切り捨てを主張した「19世紀のリベラル」につぎはぎをほどこしたものにすぎない。
 
すなわち、恵まれた知識人が貧困層や無産階級の反乱、暴動を恐れて、施しをするという統治の立場の表明にすぎない。だから、田中の主張が複雑で屈折しているのだ。
 
もちろん、私は寛容だから、「施し」をしない人より「施し」をする人が好きである。
 
野口雅弘によれば、マックス・ウェーバーの母は、貧者に施す資金をためるために、家事を自分で引き受けて、出費を抑えていたという。ところが、彼女は非常な資産家の娘である。その資産をウェーバーの父が奪い取りし、プロセインで政治家になった。彼女は「夜ベッドについても、あたたかい寝所をもたぬ大都会の数十万の人口を思うと彼女は肉体的に苦痛を感じた」という。
 
ウェーバーも父もろくでもない人間である。しかし、母は好きである。
 
日本語訳の新約聖書に「律法学者」や「金持ち」に対する憎しみの言葉がいっぱいでてくる。この「律法学者(γραμματεύς)」は「文字の読み書きできる人(地位のある知識人)」で、けっして「法の専門家(νομικός)」ではない。
 
私のような下層民からみると、金持ちの立場にたつ知識人に敬意をもてない。ヒラリー・クリントンにも、その匂いが強くて、大統領選で支持できなかった。政治家になる前の、化粧しないヒラリーのほうが好きだ。
 
新約聖書は、ちょっと変なところがあって、「金持ち」を憎しみながら追い詰めない。たぶん、初期のキリスト教徒はルンペンプロレタリアで、金持ちを憎しみながら、金持ちからの施しを必要としていたからだろう。
 
ラッセルに戻ると、個人主義はリベラルに先立つという。
 
〈アレキサンダー帝の時代以降、政治的自由の喪失とともに個人主義が発生し、キニク学派とストア学派とがそれを代表した。ストア主義の哲学によれば、一個の人間はどのような社会的状況の下にも善き生活を送りうる、というものだった。〉
 
初期キリスト教の以前に、パレスチナの隣の地シリアに、ローマの圧政にたえしのぶためにストア主義者がいたのだ。古代ギリシア社会がデモクラシーからモナキー、アリストクラシーに変わることで、政治への参加を奪われた知識人が生み出したのが、個人主義である。価値を、現世の成功でなく、孤立のなかで自分が生き抜くことに置くのである。
 
それが、19世紀になると、専門家を自称する知識人が、統治の側にたち、搾取する根拠を、自由な経済活動を正当化する論理として、リベラリズムを唱えたのである。
 
「19世紀のリベラル」につぎはぎをした「現代のリベラル」を切り捨てる者が出てくるのは当然ではないか。2011年に「ウォール街を占拠せよ」という運動がアメリカで起きたが、これを「機会の平等」を唱えるアメリカン・ドリームの崩壊とみる慶応大学の教授の中山俊宏に賛意する。
 
そう思いながら、私は、「寛容」の心で、トンデモナイ田中の『リベラルとは何か』を読み続ける。


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