伊藤正敏の『アジールと国家─中世日本の政治と宗教』(筑摩選書)は、中世の「寺社勢力」の理解の修正を求める好書である。
彼は、自らを、黒田俊雄・網野善彦の説を引き継ぐものと位置付ける。黒田は、中世を、公家支配から武家支配に代わったのではなく、公家、武家、寺社の三者が対立・補完しながら、民衆を統治した時代とする「権門体制論」を提起した。
伊藤が求める「権門体制論」の修正とは、中世の「寺社勢力」を、公家や武家のような民衆を統治する勢力と単純に捉えるより、公家や武家の枠からはみ出した空間で、民衆の声を代弁したり、公家や武家の社会からの避難者を受け入れたりする空間であった、とすることである。この意味で、網野の説を引き継ぐとする。
「寺社勢力」がこのような空間を提供できたのは、「中世は不安の時代であり、神霊的な存在が大きく人々の精神や行動に影響を与えていた」からだと、伊藤は考える。これが、中世の「寺社」を「アジール」という言葉で伊藤が括る理由である。
「アジール」は、ギリシア語 “ἄσυλος”からきている。じつは、ドイツ語では「アジール(Asyl)」となり、英語では「アサイラム(asylum)」で、語源が同じ、意味も同じである。ところが、日本語では、「アジール」が「避難所」を意味し、「アサイラム」が「収容所」や「閉鎖病棟」を意味する。“ἄσυλος”は庇護されるとも解せるし、閉じ込められるとも解せる語である。
このように、「アジール」は問題を含む概念である。伊藤は、オルトヴィン・ヘンスラーの『アジール―その歴史と諸形態』に強く影響されて、『アジールと国家』を書いたのである。
伊藤は、綿密に中世の文字資料に追い、「寺社勢力」を分析しており、本書の重要性は明らかだが、「アジール」と別の視点からも、これを解釈できるのではないかと思う。すなわち、「権門体制」を「古代国家体制の崩壊」とし、中世の「寺社勢力」を民衆の台頭の反映とみることができるのではないか、と思う。
ここで、伊藤がとりあげたエピソード「一味同心」について、考察してみたい。
西暦1198年に興福寺は、和泉国の寺領に対する国司の暴政を指弾し、その流罪を要求して朝廷に強訴した。「寺には多くの僧がいて、みな顔かたちが違うように立場も考え方も別なのだ。にもかかわらず、三千の寺僧がこれだけ人々の心が全く一致するということは、春日の神の御心がわれわれみんなの心に反射している証拠なのだ。「一味同心」の奇跡は神慮の現われだ。だから訴えは無条件で主張どおり裁許されるべきだ。国法に反していようがいまいが関係ない」と主張した。
伊藤は、ここで、「一味同心」が「神慮」であるという興福寺の主張を言葉どおりに受け取っているが、寺の集会(しゅうえ)で強訴を全員一致で決めるということに、民主政の萌芽をみてとれるのではないか。全員一致が国法を超えるという考えは、民主政の要求ではないか。
鉄砲という武器が海外から輸入され、天下が武力統一され、日本の中世が終わることで、古代国家の崩壊が、民主政を生まずに死産に終わったことを、私は残念に思う。
ヘンスラーの「アジール」の誤りは、中世ドイツを古代ギリシア、古代ローマを引き継いだものと考えるからだと思う。ドイツとギリシア・ローマとは異なる文化圏と考えるべきだと思う。ドイツが、ローマのキリスト教文化に汚染される前に、素朴な共同体文化があったと考えるべきで、「アジール」をそのなごりと考える方が自然に思う。
それに対し、中世の前に、日本には武力で統一した「古代国家」が出来上がっていて、その支配体制が崩壊することで、古代国家の文官が公家にかわり、武官が武家にかわり、国家の鎮護を呪術する寺社集団が国家の枠からはみ出し、大衆に近づいたとも考えられる。
もう少し、網野の歴史観に戻ってもよいのではと思う。
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