ふと、最近思ったのだが、人は、本来、変化を求めない、すなわち、保守的なのだ。人は記憶にもとづいて動く「からくり人形」だとすると、環境が変わると、それについていくのに苦労する。適応するために右往左往することが嫌だ。考えるということは試行錯誤することだ。考えないように教育されている人は考えるのが苦痛だ。そのときは誰かに頼ろうとする。
私は、子どものとき、もう覚えないぞ、考えるのだ、と決意した。そんな私だが、服を変えるのが嫌いだ。服を着替えると、ハンカチをもったか、財布をもったとか、定期をもったか、鍵をもったかとか、と色々と確認することが出てくる。頭に負担がかかる。だから、職場に行く服を変えるのが嫌いだった。毎日同じ服を着ようとした。変化を望まないのである。
ということは、変化を求めるということは、多くは、その人が、どうしようもない状況にあるからだ。
日本近代史研究者の伊藤隆は、「革新・保守」と「左翼・右翼」と区別する。必要に迫られないのに変化を求める人は変わっているのだ。リスクを求めている。
野良猫を見ていると、オスの子猫が大きくなると、母猫に群れから追い出される。母猫に体を寄せると、オスの子猫の頭を母猫はコツンとたたくのである。そして、オスの子猫は群れを飛び出て帰ってこない。きっと、その半数はどこかで野垂れ死しているのだろう。
デイヴィッド・J.リンデンは『快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか』(河出書房新社)で、人にもリスクを冒す本能があり、それが脳の「快感回路」と結び付いているという。それがあるから、人類は生存域を増やすことができたのだという。海を越え、山を越え、未知の土地に住むようになったという。新世界を開拓する必要のなくなった今、人はリスクを求めてギャンブルにのめり込む、とリンデンは言う。もちろん、some people だが。
変化が好きでないが どうしようもなくて変化を求める人と、変化が好きで変化を求める人とがいるのだ。
J・K・ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)で、19世紀は貧困層が多数派であったが、米国でだが、第2次世界大戦後、貧困層が少数派になったという。貧困層を救うということが良心の問題になったという。
いま、日本では自民党政権が続いている。ということは、どうしようもなくて変化を求める人たちが少ないのかもしれない。
しかし、どうしようもなくて変化を求める人は、誰かに頼るという間違いを起こすかもしれない。1930年前後に、ドイツに不況がおとずれると、急速にナチが伸びた。「ドイツ人の生存権を広げる」というナチの呼びかけに30%の人が応じて、ナチが政権を獲得した。
面白いことに、この30%は自民党の岩盤層に呼応している。変化を求めない人が自民党を支持しているはずなのに、自民党自体は右翼過激派集団になっている。何か変だ。自民党は、変化を求めない人を、少しずつ、内には抑圧社会のほうに、外には軍事国家のほうにひっぱって行く。変化を求めない人たちが、自分で考えたくないから、自民党が社会体制を変えていると、無意識に認めないのだろう。支持する政党が間違っているのだが。
トリチウム水を海洋に放出するのは大きな変化である。「風評被害」だという電通の政府広告に押されて、変化がきらいな人が「政府」の言う変化なら変化でないと思うのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます