田中拓道は『リベラルとは何か』(中公新書)の中でつぎのように指摘する。
〈1970年代に登場した新自由主義(ネオ・リベラリズム)は、古典的な自由主義とは異なる論拠に支えられていた。それは経済的な自由だけでなく、「価値の多元性」という新たな哲学に支えられたものだった。〉
この多元性は“pluralism”の訳で、多様性は“diversity”の訳である。
今年、私のNPOの研修で、経験豊かなスタッフからつぎのような発言があった。
〈生き苦しさを抱える子供の指導にあたって、いろいろな考え方のスタッフがあっていいのだと思います。〉
驚いたことに、この発言を「子供は色々な考えの大人と接して強くならなければいけない」と理解したスタッフが少なからずいた。そうではない。発言者は、「子供の指導にあたって何が最善かわからない」という難しさを述べているのである。
子どもの抱えている問題も多様であるし、子どもの性格も多様、子どもを囲む環境も多様である。事前にそれらが分析でき、1つの指導方法だけが正しいとわかるわけではない。現実的には、その子に色々なタイプのスタッフをあてて、より良い結果を生み出すスタッフを探し出すことになる。結果が悪ければ担当スタッフを変え、結果が良ければそのまま担当を続けてもらう。
「価値の多元性」は、より良い社会を築くに、良い社会とは何か、また、効率的なその手段は何か、わからないということをついている。すなわち、多数派の中で、少数派が自己主張するために、理性が「良い社会」「良い手段」の問題に答えきれないことを利用しているだけで、自分の唱える価値が一番正しいと各自思っているわけだ。
「多様性」は現実に起きる傾向のことで、価値とは無関係である。遺伝子の本体である塩基配列は常に変異を起こし、多様化が起きる。(進歩とかいう考えは多数派が自己正当化の嘘である。)
何が良いかわからないと言って、すべてが良いで済ますのはおかしい、と思う。「価値の多元性」は単なる政治的デマゴギーだと思う。何が良いかの言い争いが起きるのが正しいありかただと思う。そして、やってみてだめだったら、考えを改めることがないといけない。