猫じじいのブログ

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知的でもなく楽しくもない「会食」には絶対に出たくない

2021-03-16 22:16:45 | 社会時評


きょうの朝日新聞《耕論》で、3人の論者が「会食」について論じていた。

会食はもともと共同体社会の内か外かを表わす儀式であった。それが、いつしか、徒党を組むために会食をもつようになった。仲間か敵か窺い知るために、誰が親分で誰が子分かを示すために、共同体社会の会食のように、集まって同じものを食べるようになった。そして、ヤクザの「一宿一飯の恩義」という言葉まで生まれた。「接待」も人によっては「会食」に分類する。

政治ジャーナリスト田崎史郎は、政治家が会食をもつことを当然のように肯定する。それは、政治を「権力闘争」と理解するからである。彼にとって、政治は「階級闘争」ではなく、個人がトップに立つための闘争であるからである。すなわち、デモクラシーというものを否定している。

元衆院議員の井戸まさえは、「会食」を嫌悪しながら、政治家の会食を全否定できないという。会食は共犯関係を作る隠微なものをとしてとらえる。

ホタテ漁師の高森優は「会食」を否定する。共同体社会の内か外かを表わす儀式は、集団のなかでの上下関係を維持するために、村だけでなく、日本社会に広くいきわたっているという。

私は、食事を楽しむために、ただそれだけのために、家族や友人や見知らぬ人たちが集まって食事をしたって良いと思う。

しかし、政治家の会食には反対である。政治には合理的思考が求められる。集まりのなかで知的な会話が戦わされるべきである。食事をしながら、知的な会話ができると思えない。水か、お茶か、コーヒーで我慢すべきである。

また、共同体というものは、本来、財産の共有と対等な人間関係の社会を意味するのであるが、排除をちらつかせて、思想の均一性を押しつけたりするなら、そういう共同体は要らないと思う。

もっとも、私は好き嫌いが激しいから、同じもの食うということ自体ができない。おまけに、私は、お酒を飲むことはお金の浪費と思うようになったし、人のバカ話を聞きたくないから、知的でもなく楽しくもない「会食」には絶対に出たくない。

[補足]
新約聖書においては、会食や共同体について、面白い話が多い。特に、パウロが出てくる『使徒行伝(Πράξεις τῶν Ἀποστόλων)』に多い。すでに、この時代に「会食」や「共同体」がウソっぽいものになっていたことがわかる。


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