ずいぶん前のことだが、いじめにあっていた女の子が、「私達は、つるむ事が好きです。一人でいることがとても寂しく感じます。友達の中にいると安心するので、自分のポジションが一番下で、いじめに あったとしても、そのグループの中からは抜けられないのです」と作文に書いていた。
「つるむ」とは、集団に同化することである。いじめの発生だけでなく、同調圧力の重苦しさも、「つるもう」とする心から生じる。
息子から聞くと、不要不急の外出の自粛要請にもかかわらず、休日の巣鴨の商店街に老人の人出があったという。これは、老人だけの現象でない。
糖尿病患者の私は、ほぼ毎日散歩している。ところが、最近、晴れの休日になると、一部の緑道だけに人ごみが生じる。いっぽう、町の道路は人けがまったくない。
町は全体として外出禁止令がかかったように静かなのに、一部の緑道だけに人ごみが集まる。
思うに、ヒトがすべて、集団に同化したいという本能をもっているのではない。一部のヒトが、不要不急の外出の自粛が呼びかけられても、群れようとする。
私は「つるむ」ことも、「同調する」ことも、「集団に同化する」ことも好きでない。「密集」を防ぐ、ヒトとヒトの間に距離を保つなんて、私にとってあたりまえのことである。人ごみが恋しいなんてことは、起こり得ない。だから、「外出禁止令」なんて不要である。
引きこもりのみんなも、私と同じではないか。私が思うに、ヒトとあうの怖いのであって、外出が嫌いなのではない。ヒトとあわなければ、新型コロナに感染する心配もない。新型コロナの感染大爆発が起きても、生き残るのは「引きこもり」である。「引きこもる」ことに自信をもとう。
人ごみ好きなヒトと一緒くたにして、「移動の自由」を制限してほしくない。
エーリック・フロムは『自由からの逃走』(東京創元社)で、「自由」というものの前提である「個人の確立」に耐えかねて、「自由」から逃げ出すヒトたちの、心の動きを書いている。
この「自由からの逃走」の典型的な1つのパタンが集団に同化することだ。つるんだり、群れたりすることだ。確かに、弱者は、イワシやスズメのように、自分の個性を消して集団でいれば、種として、生き延びることができるかもしれない。
しかし、私たちはヒトである。ヒトに危害を加えるのは、ふつうはヒトである。社会を変えれば、ヒトがヒトに危害を加えることは起きない。つるんでも、群れても、いじめはなくならない。
また、ヒトに危害を加える自然災害、感染症に対しても、つるむことも、群れることも、無力なのである。
新型コロナの流行は、つるまない、群れない、生き方を学ぶ絶好のチャンスなのだ。ヒトとヒトとの距離をとる、“social distancing”は、個人を確立する絶好のチャンスなのだ。ライブ・ハウスやカラオケに行かなくても、キャバレーやバーに行かなくても、生きていけるのだ。
しかし、社会を変えるには、引きこもっているだけではダメだ。他のヒトに敬意をはらい、助け合うことが必要だ。
エーリック・フロムやバートランド・ラッセルは、このことを“solidarity”と言う。ドイツ首相のアンゲラ・メルケルは“Solidarität”と言う。私は「団結」「連帯」に集団主義、軍国主義の匂いを感じるので、「助け合い」と言いたい。
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