きょうの朝日新聞に、大学入試共通テストの英語の試験問題への批判が投稿されていた。要旨は、実用的な文章を機械的に大量に処理するテストになっており、2つの点で不適切だとしている。第1は、私大の個別試験や国公立の2次試験と趣を異なるために、テスト対策で生徒の負担をます。第2は、本当の英語教育は思考力や読解力を育てる深い読みにあり、テストはそういう教育に弊害がある。
私はもともと英語が嫌いだし、大学に入学するためにテストがあるというのに反対である。その点で、教師は、自分が正しいと思う英語教育を高校でやればいいじゃん、と思ってしまう。
しかし、現実的には、大学入試にそっぽを向いて教育すると、教師は、親や生徒からそっぽを向かれ、孤立し、場合によっては解雇されるかもしれない。そういう状況からの真剣な投稿だと思う。
私のみるところ、共通テストの特徴は、英検などの民間のテストと変わらないと思う。50年以上も前は、リーディングというと日本語への翻訳や文法問題があった。私が思うに、1つの言語で書かれた文章を別の言語に翻訳することは、不可能だと思う。その意味では、英語を日本語に直すことなく、英語のまま判断し、質問を処理せよとする現在の英語のテストは、それはそれで良いのではないか。英語が嫌いでも、文法がわからなくても、英語の文章に対処できるので、いいのだと思う。
共通テストの英語の得点が、大学入学に大きな影響を持たなければ、私大の個別試験や国公立の2次試験と趣を異なるので良いと思う。大学は、自分の欲しい学生を選ぶため、共通テストを無視すれば良いと思う。そもそも、共通テストは、多様性を認める社会の考え方と矛盾する。
今回の共通テストの英語の得点は、平均が約60点、標準偏差が約20点である。英語が嫌いなものには、標準偏差が大きすぎる気がするが、まあ、しかたがないのかもしれない。
投稿者は考える英語教育を唱えるが、その意味はわからないが、一律の英語教育をする必要がなく、イギリスやアメリカの文化に触れるための英文学や英新聞や英哲学を読む授業があってもよいと思う。日本人が教科書用に書き下ろした英文を読んでも、英語圏の文化に接したことにならない。
下記はJ. D. サリンジャーの “Catcher in the Rye”の冒頭にある一節だ。
The other reason I wasn’t down at the game because I was on my way to say good-by to old Spencer, my history teacher.
自分の先生の姓に、名前でなく、“old”をつける感覚なぞが面白い。文学は、日本とまったく違う世界があるということを知るきっかけになる。
英語を学ぶのは、英語圏のもの考え方を知るための手段でもある。決して、海外旅行をしたとき、料理を注文できるためでないはずだ。また、実用文を読むといっても、英語圏のビジネス感覚を知らないと、ビジネスレターひとつ書けないだろう。いいレターになるためには、公平な取引の主張のなかに、自分の思いやりを隠れた形で、入れ込む必要ある。
こう考えていくと、投稿者のいう本当の英語教育とは何か、もっと、持論を展開してくれると、議論が面白くなる。
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