きょうの朝日新聞に載った村田紗耶香の寄稿『多様性って何だ 気持ちよさという罪』は読んでわかりにくく、2度読んだが、それでもわからない。3度も読んだ。
見出し《殺していた私の個性 「愛おしい」と言われ 幸福感で泣くことも》、《キャラ化 異物の排除と気づいた》は、読者の理解を助けるために、朝日新聞の記者が勝手につけたのだろうか。
彼女は1979年生まれだから、私より32歳若い。彼女は書く。
《確か中学生くらいのころ、急に学校の先生が一斉に「個性」とう言葉を使い始めたという記憶がある。いままで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ、という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちよさそうな様子がとても薄気味悪かった。》
じつは、私が高校生の頃も「個性」がだいじなものとして叫ばれていた。「個性」は英語の “individuality”の訳で、「個別性」のことをいう。私が大学生になった頃、1970年前後、「学園闘争」という学生の反乱がおこり、その終結とともに、「個性」が禁句になった。
それが、彼女によれば、バブルのはじけた1990年以降に、再び「個性」という言葉が、はやったらしい。私はそんなことがあったとは、まったく、知らなかった。
1992年にシンガーソングライターの尾崎豊が事故死した。
彼女は書く。
《そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、いままで通り静かに排除されていた。》
彼女は賢いのだ。「個性」は「個人」とペアになった概念で、個人が自立していく過程であらわれる、ひとりひとりの人間としての違いのことである。ところが、日本政府は、「個性」を「一芸に秀でていること」のように捉え、日本の不況脱出の起爆剤と考えたものと思われる。
彼女は書く。
《大人になってしばらくして、「多様性」という言葉があちこちから、少しずつ、聞こえてくるようになった。
最初にその言葉を聞いたとき、感じたのは、心地よさと理想的な光景だった。》
《けれど、私は、「多様性」という言葉をまだ口にしたことがほとんどない。》
言葉に違和感をかんじる彼女は賢い。
《その言葉を使って、気持ちが良くなるのが怖いのだと思う。私はとても愚かなので、そういう、なんとなく良さそうで気持ちがいいものに、すぐ呑み込まれてしまう。だから、「自分にとって気持ちがいい多様性」が怖い。》
彼女は本当に賢い。
「多様性」とは、抑圧するなとマイノリティがマジョリティに言うための言葉である。
「いじめ」とは、マジョリティが異質なものマイノリティを排除することだ。
別に「多様」がいいというわけではないが、「多様」は自然と生じるもので、それを「均一」にもって行こうというのは、息苦しいし、新たな生き方、 “alternative”を踏みつぶすものである。「多様性」は「均一化」に反対する標語である。
人間ひとりひとりが違うということを認めない人が「多様性」を唱えると、悪意を感じてしまう。小池百合子は、朝鮮人学校を排除する立場なのに、東京都知事選で「ダイバシティ」をスローガンに当選した。単にdiversityの“sity”と“city”と読み替えた駄洒落にすぎない。
彼女、村田紗耶香は書く。
《私自身が、「気持ちのいい多様性」というものに関連して、1つ、罪を背負っているからだ。》
ここがわからない。なぜ「罪」というのか。だます者を責めるのはわかるが、だまされやすい性格をもっていることを、なぜ「罪」というのか。
人間は言語の理解のために脳を酷使している。その結果、暗示にかかりやすい。言葉にだまされやすい。それを「原罪」のように捉える必要はない。「原罪」は腐敗しきった教会のつくりだしたドグマにすぎない。
言葉を信頼するからだまされる。
彼女は書く。
《私は、「多様性」という言葉で自分を騙し、私と同じように、「奇妙さ」を殺しながら生きている人を、深く傷つけてしまった。》
彼女が自分を責めるのは、自分が「クレジー」と呼ばれることを容認したことらしい。
《安全な場所から異物をキャラクター化して安心するという形の、受容に見せかけたラベリングであり、排除なのだ、と気が付いた。そして、自分がそれを多様性と勘違いをして広めたことにも。》
彼女は賢い。
しかし、自分を責めるな。だます人に怒れ。「奇妙」であることを誇れ。そして、元気がでてきたら、言葉を風化させる人たちと闘え。
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