猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ニーチェの『善悪の彼岸』、劣等感のかたまりの男

2019-04-24 12:34:04 | 思想
 
ニーチェの『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)に続いて、『善悪の彼岸』を読んだ。岩波文庫の木場深定の訳と光文社古典新訳文庫の中山元の訳と、ネット上のドイツ語原文を合わせて読む。
 
理由は、最初に取り寄せた木場深定の訳が重く、わかりにくかったからだ。木場の訳は、漢字に凝り、やたらと常用外漢字を使うし、漢字を2字組み合わせ、造語する。
 
中山元の訳はわかりやすいが、原文にない余計な語句を追加する。かなりの頻度で、木場訳と中山訳は相反する。多くの場合は、中山の読みが正しいが、明らかに中山が間違っている場合もあった。
 
翻訳のむずかしさを感じる。言語は互いに翻訳可能とするのは幻想である。
 
しかも、ニーチェ自身が混乱しているし、現代の私たちと異なった言葉使いをしている。ニーチェは古典文献学者で、時代の世界の思想の流れにそっぽを向いている。
 
ニーチェは、断章14で次のように言う。
「物理学はそれなりに眼と指とをもち、それなりに明白さと平易さとをもっている。」(木場訳)
 
この「物理学」は、Physikの訳である。ニーチェは、「自然科学」をPhysikと呼んでいる。カントと同じ言葉使いである。
 
ここで、ニーチェは言葉遊びをしている。自然科学には、目(Augen)と指(Finger)があるから、直接見ること(Augenschein)ができ、直接さわること(Handgreiflichkeit)ができると言っている。すなわち、観測手段や実験手段があると言っている。ニーチェからみれば、観測や実験は労働だから、奴隷がする行為になる。自然科学をバカにしたつもりなのだろう。
 
ニーチェは、断章12で次のように言う。
「唯物論的原子論に関して言えば、これはあらゆるもののうちで最も完全に論駁されたものの一つである」(木場訳)
 
ここでの「唯物論的原子論」は、die materialistische Atomistikの訳である。ただ、この「原子論」は19世紀の原子論ではなく、古代ギリシアの「原子論」である。「たましい」も原子からできているとする、「原子論」である。
 
ニーチェは当時の化学や物理の原子論の進展をまったく知らなかったと思われる。
 
19世紀の化学では、原子の質量比や、分子を形作る原子数の構成が、実験的に求められ、1重結合、2重結合の概念もできていた。また、物理学では、イギリスのマックスウェル、オーストリアのボルツマンは気体分子運動論を提唱し、統計力学の道が開かれた。
 
ニーチェは、断章204で次のように言う。
科学は、哲学や神学の奴隷であったのに、いちはやく、神学から解放され、「科学は今では不遜となり無分別になって、ついには哲学に対して法則を与え、自己自らが今度は『主人』の役」を演じるに至っている。
 
ここでの「科学」は、Wissenschaftの訳である。ニーチェは、神学と哲学以外のすべての知識体系をWissenschaftと呼んでいる。ここでは、アリストテレス、プラトンを意識している。
 
ニーチェはすごく劣等感の強い男であったと思われる。時代の進展に取り残され、哲学者としても敬意を払われず、裕福だった牧師の父親にも劣等感をいだいている。
 
冒頭の断章1で、「真理への意志」(Der Wille zur Wahrheit)という異常な言葉をニーチェは吐く。これは「真理を探究しようとする意志」ではない。
 
これは、断章211の「真の哲学者は命令者であり、かつ立法者」で、「かくあるべし」と言うのだと通じる。自分の思いに世界を変えるのだと言っているのだ。
 
断章6で「これまでのあらゆる偉大な哲学」は、「その創設者の自己告白」であり、「一種の《覚え書き》」なのだと言う。
 
断章34で、「哲学者はこれまで地上において常にもっとも馬鹿にされてきた存在」として、「わるい性格」をもつ権利があると言う。
 
「いじけている」ニーチェとしか、言いようがない。このような男が、「自分の思いに世界を変えるのだ」と社会問題や道徳を論じるとトンデモナイことになる。

ニーチェはポーランド貴族の末裔、『この人を見よ』

2019-04-23 18:39:07 | 思想

私の愛すべきNPOの子どもたちに、フリードリッヒ・ニーチェの言葉を引用して、自分の欲望を押し殺すことの残酷性を告発した女の子がいた。その子はディスレクシア(読字障害)なのに、である。

私自身は、これまで、ニーチェの著作を読んだことはない。読まないで、ドイツ哲学というものを嫌ってきた。その女の子に見習って、ニーチェの著作を何冊か読んでから、ドイツ哲学の悪口を言うことにした。

てはじめに、ニーチェの一番薄い『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)を選んだ。丘澤静也のリズミカルな訳がはしる。ネットでドイツ語の原文をダウンロードすると、ドイツ語の著作に珍しい、快適なリズムの短文がつらなる。「――」とか「…」かが、接続詞の代わりをする。

読んで一番さきに感じるのは、リズムある文章にもかかわらず、著者の混乱した心である。
精神科医であれば、統合失調症の前駆症状か双極性障害を疑うだろう。しかし、一方で、真摯な著者の心が伝わる。女の子を魅惑したのは、このためであろう。
ニーチェのこの最後の著作は、自己弁解の書であり、これまでの著作のガイドにもなる。

私が驚いたのは、このなかで、ニーチェがポーランド貴族の末裔を自称していることだ。

「私は純潔のポーランド貴族である。悪い血は一滴たりとも混じっていない。ドイツの血が混じっている可能性は一番小さい。」(丘澤静也 訳)

もしかしたら本当にそうなのかもしれない。あるいは、ニーチェの思い違いかもしれない。

私も子どものとき、自分の先祖はインドからの渡来人だと思っていた。母から お釈迦様の掛け軸がインドから来たものだ、と聞かされたことが、間違って自分の祖先がインドから渡来したと記憶したのだと、大人になって気づいた。しかし、自分が渡来人だと思ったことは、いま、移民を受け入れる私の心理的基層になっている。

ニーチェの父親はルター派の牧師であり、ポーランドはカトリックの国であるので、ポーランド貴族の末裔でないかもしれない。それに、私の好きなボーランド移民の娘は、ポーランド貴族の名前の末尾に「……スキー」がつくのだ、と、昔、教えてくれた。

しかし、ニーチェは、ポーランド貴族の末裔らしく、ドイツ的教養が大嫌いである。

ドイツが小国に分裂していた時期、ポーランドは文化的な大国であった。ユダヤ人がそれに貢献していた。今なお、ポーランドは、ヨーロッパでヘブライ語文字が刻まれた貨幣を発行した唯一の国である。分裂していたドイツは文化からほど遠かった。ポーランドとドイツはよく戦争をしていたのである。

いっぽう、ニーチェと同時代のドイツ人は、ポーランド人とユダヤ人が好きでない。

私がもつドイツ文化への嫌悪は、第1に、大学の教養課程の老ドイツ語教師の影響である。彼は、ドイツが権威的な社会でそれがドイツ文学をいびつにしたと教室でつぶやいていた。
第2に、ドイツ哲学の本を読むと、一文が長くて屈折していて、率直性にかけていることが、ドイツ文化嫌いにした。
第3に、私が外資系の会社にいたとき、論争相手のドイツ人が「プロフェッサー」を名乗り、下劣な顔つきをしていた。
第4に、深井智明が『神学の起源』(教文社)に、宗教改革が、森の住人たるゲルマン人の南方のローマ文化に対する劣等感の裏返しにすぎない、と語っていたことが影響している。

もっとも、ドイツ文化は日本文化よりもましである。日本はドイツ文化を取り入れたから、日本はドイツより後進国だ。

【蛇足1】光文社古典新訳文庫の『この人を見よ』は、訳注を[ ]の記号で使って本文に挿入しているが、不必要な先入観を与えるものであり、不愉快である。訳注を章末か本の後部においてほしい。
【蛇足2】1ページに何カ所か太文字で単語が強調されているが、そのため読みづらい。傍線かなにか目立たないものに置き換えてほしい。

エデンの園の「善悪を知る木の実」は誤訳

2019-04-23 16:35:03 | 誤訳の聖書
 
旧約聖書『創世記』の「エデンの園」は、最初の男女であるアダムとエバが「善悪を知る木の実」を食べて、神によって楽園を追放されるという物語である。
 
しかし、人間が「善悪」を知ることを、なぜ、神が禁じたのか、昔、不思議に思った。そして、ある日、「善悪」というのが誤訳である、ということに気づいた。
 
この「善悪」は、ヘブライ語“טוב ורע”(トーウブ・ワーラー)の訳である。ヘブライ語は、現在のアラビア語と同じく、右から左に文字を読む。
 
“טוב”(トーウブ)は「よい」と、“רע”(ラー)は「わるい」と訳せる。しかし、これらの語は、英語の“good”や“bad”のように、幅広い意味をもつ。
しかも、昔のヘブライ人やギリシア人に、今のような道徳的や倫理的な価値観はないから、「善悪」と訳しては、いけないのだ。
 
すなわち、「よい」「わるい」は、自分にとってなのか、わたしとあなたにとってなのか、みんなにとってなのか、神や権力者にとってなのか、文脈で判断しないといけないのだ。
 
70人訳ギリシア語聖書では、ヘブライ語のトーウブには“καλός”(カロス)か “ἀγαθός”(アガトス)が、ラーには“πονηρός”(ポネーロス)か“κακός”(カコス)があてられた。
ギリシア語のカロスとポネーロスは自分の感情的判断をさし、アガトスとカコスは話者と聞き手が同意できる判断をさす。
 
ポネーロスは日本語で「邪悪な」と訳されることが多いが、「非常に悪い」という意味ではなく、「忌々しい」とか「不快な」という意味である。
 
たとえば、『創世記』28章8節のラーは、70人訳ギリシア語聖書では ポネーロスと訳され、日本語聖書では
「エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って」(新共同訳)
と、「気に入らない」と訳されている。
別に、カナンの娘たちが「邪悪な」のではなく、エサウの父、イサクが単に不快に思っているというだけである。いってみれば、イサクが「差別」感情をもっていたということだ。
 
70人訳ギリシア語聖書では、エデンの園の物語の「善悪」(2章9節、17節、3章5節、22節)に、カロスとポネーロスが使われている。すなわち、アダムとエバは、「善悪」を知る木の実ではなく、「ここちよいと きもちわるい」を知る木の実を食べたのである。だから、「エデンの園」は、アダムとエバが人間的感情をもったので、もはや、彼らは神のペットでありえない、という物語である。
 
したがって、旧約聖書のどこにも、アダムとエバが「ここちよいと きもちわるい」を知る木の実を食べたことを、「つみ」としていない。
 
旧約聖書の『申命記』1章39節にも、同じヘブライ語“טוב ורע”(トーウブ・ワーラー)が出てくる。70人訳ギリシア語聖書では、“ἀγαθὸν ἢ κακόν”(アガトン・エー・カコン)と訳されている。ここでは、「まだ善悪をわきまえない子どもたち」は、神の約束の地カナンに行ける、と理解して問題がない。ここでの「善悪」は、社会(世間)の掟による判断をさす。
 
新約聖書の日本語翻訳にも間違いが見られるが、旧約聖書の翻訳は非常に間違いが多い。

現行の憲法が植民地主義、軍国主義を封印

2019-04-22 09:12:59 | 憲法


3年前の憲法記念日5月3日、憲法学者の石川健治が朝日新聞に興味ある小論を寄稿した。
それは、植民地主義、軍国主義を清算し、復活を防ぐ「結界」こそが、戦後の平和憲法であり、憲法9条である、とするものであった。

彼が「結界」という言葉を使ったのは、キリスト教的「かおり」を避けるためであり、本当は「封印」という言葉のほうが適切かもしれない。戦後の平和憲法は、思想信条の自由を掲げ、植民地主義、軍国主義を「公(おおやけ)」の世界から「私(わたくし)」の世界に封印したわけである。

しかし、憲法9条は残る最後の「封印」であり、すでに、いくつかの「封印」は破られている、と私は思う。

戦前に植民地主義、軍国主義の先兵であった岸信介が、「占領下に成立の憲法」の廃棄を掲げて、戦後政治に復活したのが、封印の最初の解除である。「占領下に成立の憲法」の廃棄は、当時の日本人のこころの底にあったナショナリズムに訴え、植民地主義、軍国主義の復活の旗印になった。

つづいて、私の子ども時代の「総評の解体」、日教組の弱体化、国旗掲揚や国歌斉唱の強要、道徳教育の導入、大学教育への文部科学省の介入と封印が破られた。ナショナリズム、愛国主義が政府主導の形で、教育の現場に持ち込まれた。

さらに、岸信介の孫、安倍晋三によって、6年前の機密保護法、4年前の集団軍事行動を可能とする安保法制、2年前の共謀罪法、と加速的に封印が破られている。

日本国憲法9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している。そして、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と言う。

この規定があるから、日本には「軍隊」がないのである。日本にあるのは「自衛隊」なのである。現行の憲法があるから、「自衛隊」を他国に派遣し、他国の人たちを殺すことができないのである。

最後の封印、日本国憲法9条が、武力による植民地主義、軍国主義を封印しているが故に、私も憲法改正に反対する。

しかし、日本国憲法には「天皇制」という欠陥がある。憲法2条で象徴天皇を「世襲制」と規定しているのである。憲法1条から7条は、「平等」を社会の原則とする憲法14条と矛盾する。憲法から削除すべきである。

日本国憲法14条は
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する」
と規定している。

「皇室」「世襲制の天皇」は、人間を「門地」により差別するものである。
人間としての平等が、民主制の骨幹なのだ。
「天皇制」という憲法の欠陥が、戦後73年の民主主義を壊してしまう可能性がある。

「万世一系」は日本人として恥ずべきこと

2019-04-21 19:48:10 | 天皇制を考える


私は、旧約聖書『士師記』のことば「そのころ、イスラエルには王がいなかった」が好きである。『士師記』に4度も出てくる。

「王」とは、「血筋によって支配者になったもの」という意味である。

実は、ヘブライ語にもギリシア語にも「王」ということばがない。動詞「治める」の名詞形「治めるもの」が、「王」のかわりとして使われている。

日本語にも「王」も「天皇」もなかった。「王」は明らかに中国からの輸入だし、宇山卓栄によれば、「天皇」も明治になって使われだした漢語だそうだ。「天皇」は、大胆にも、中国の「皇帝」に対抗して作られた漢語らしい。

旧約聖書『サムエル記上』によれば、民が「他国のように王をもちたい」と望んで、イスラエルに王ができたという。

このとき、祭司サムエルは、神のことばとして、王はろくでもないものだ、後で泣いても遅い、と民に警告した、と『サムエル記上』にある。

そして、祭司サムエルは、ベニヤミン族のサウロの頭に油をそそぎ、初代の王とした。しかし、王サウロが、敵アマレク人の王アガグを殺さず、連れて帰ったため、祭司サムエルは、神の意志に逆らったとし、サウロに王の座を奪われると預言し、みずから、王アガグを切り殺した。

すさまじい話である。

サウロは王の座を奪われ、そして、ユダ族のダビデが、二代目のイスラエル王になる。ダビデは、敵ペリシテ人側に寝返っていた軍人である。

もっとも、長谷川修一は、旧約聖書でてくる、この統一イスラエル王国やダビデ王の話は、歴史の偽造で、存在しなかったのでは、と言っている。

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』の古代篇で、ギリシアの政治体制は、王制から民主制に、民主制から民主制と僭主制との競合に移った、と言う。その転換点で殺し合いがあったという。これもすさまじい話である。

僭主制とは、強い者が支配者になり、合議制を無視することである。

ローマ帝国の皇帝は血筋ではない。王ではない。アフリカ出身の黒い肌の皇帝もいた。強い者が王になるのだが、強くなるためには、民衆の支持がいる。ローマ帝国の政治体制は、選挙の手続きが不確かな大統領制とも言える。

ヨーロッパの森の奥地では、「王」は、貴い人々からの選挙で選ばれたという。kingの語源は、「血統」らしいが、これは「貴い人々」さす。「王」の子が「王」になるのは、9世紀以降の神聖ローマ帝国に始まる。選挙を無視するのに、キリスト教の教皇が手助けした。

「天皇」が中国の「皇帝」に対抗したように、王制の歴史は、中国が明らかに古い。

しかし、中国でも、ヨーロッパでも、王朝は長く続かない。入れ替わるのだ。これは、すごく健全なことである。

人間の遺伝子は、みんなが引き継いでいる。たまたま、恵まれたひとが、「治めるもの」になるだけである。王の子が王になることに何の意味もない。血筋によらず、「治めるもの」を選び直すのが、健全である。

「万世一系」とは、選び直しが一度もないということだ。これは、日本人として-恥ずべきことである。

日本国憲法の第二条、「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」は、民主制の国にあってはならない条項である。