猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

津久井やまゆり園殺傷事件公判で私たち社会の偏見・不正を裁け

2020-01-24 23:31:34 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きょう、1月24日、津久井やまゆり園殺傷事件の第8回公判があった。
本来、きょうは第10回公判になるはずだった。
すなわち、1月22日23日の公判が取り消しになったのである。

なぜ、取り消しになったのかを、メディアは報道していない。横浜地裁はその理由を明らかにしていない。

かってに私が想像すると、1月22日の公判前のJNNとの面会で、被告が、「自分は当時 心神喪失であったのではない、それで無罪や減刑を求めていない、弁護人を解任したい」と述べたからではないか。弁護人が、急遽、8回目に予定されていた被告人質問の延期を地裁に申し出たのではないか。

メディアには経緯を調べて明らかにしてほしい。

とにかく、きょう、第8回公判が、被告と弁護人とが対立したまま、始まった。
裁判は 真実にもとづいて おこなわれるべきで、弁護人は、被告の意志を無視して、刑を軽くするための法廷戦術に走るのは許されない、と私は考える。
被告は弁護人を解任すべきである。あるいは、弁護人は辞任すべきである。

弁護人は、「被告が事件当時、大麻精神病などの精神障害だった疑いがあり、心神喪失や耗弱の状態だったとして無罪か減刑を主張」しているという。

「精神障害」を、現在、日本精神神経学会では「精神疾患(mental disorders)」と呼んでいる。
mental disordersの多くは情動の不安定をひきおこすものであり、心神喪失状態に陥るものではない。また、乱射できる自動小銃を持っていないかぎり、心神喪失状態で大量殺人はできない。たとえば、酒で酔っぱらった人が、この人を殺すべきか否かを問いながら、選択的に殺すことはできない。

「大麻精神病などの精神障害だった疑い」という曖昧な表現で、弁護人が「無罪か減刑」を勝ち取れるはずがない。「など」とか「疑い」ではなく、「大麻精神病だった」ことを証明しなければならない。

「大麻精神病」という診断名は確かにある。アメリカ精神医学会(APA)の診断マニュアルDMS-5では、次の診断基準をかかげている。

A.以下の症状のうち1つまたは両方の存在
 (1) 妄想
 (2) 幻覚
B. 病歴、身体診察、臨床検査所見から、(1)と(2)の両方の証拠がある。
 (1) 基準Aの症状が、薬物中毒または離脱の経過中またはすぐ後に、または大麻に曝露された後に現れたもの
 (2) 含有された物質・医薬品が基準Aの症状を作り出すことができる
C. (省略)
D. その障害は、せん妄の経過中にのみ起こるものではない。
E. (省略)

AからEまでがすべて満たされたとき、「大麻精神病」という。
被告に継続的な「幻覚」があったという話しは聞いていない。また、被告が、意思疎通の取れない障害者を安楽死させれば「(日本の)借金が減り、みんなが幸せに生活できる」と思ったことは、「妄想」ではない。単に「信念」である。
「妄想」とは、誰もが共有できる客観的「事実」に反する認識を言う。自分の意思にともなう「思想信条」がいかに極端であろうと、それを「妄想」とは言えない。

したがって、弁護人の主張が裁判で通るはずはなく、形式的に被告を弁護しているふりをしているだけである。

それよりも、(1) 被告の主張が現在の日本にある1つの「思想信条」であり、それが許されないなら、そういう「思想信条」をもっている人々すべてをも平等に裁かないといけないとするか、(2) 人を大量に殺したからといって、その実行犯を殺すことはできない、牢に閉じ込めて自分の行為を悔い改めさすべきだ、とするかが、弁護人の取ることのできる弁護であると思う。

1月24日の公判での被告の主張をここでまとめてみよう。

「(裁判で)責任能力を争うのは間違っている。自分は責任能力があると考えています。」
事件の1年ほど前から「社会に役立つことをしてお金を得よう」と考えた。
やまゆり園職員として働き、利用者の家族が疲れ切っていると感じていた。
日本の財政が借金だらけだと知り、「重度障害者がお金と時間を奪っている」と思った。
「(重度障害者が)無理心中や介護殺人、社会保障や難民といった多くの問題を引き起こしている」。
「働けない人を守るから、働かない人が生まれる。支給されたお金で生活するのは間違っている」。
意思疎通の取れない重度障害者を安楽死させれば「(国の)借金が減り、みんなが幸せに(ぜいたくな)生活できる」と思った。
障害者を殺害すれば人の役に立ち、お金がもらえると考えた。
 
じつは、同じように、私のような老人にたいしても「死ねばよい」と日本社会の一定層が考えている。それを財務省が煽っている。横浜市の公立中学校では、夏休みに税務署の公募作文を生徒全員に書かす。私のNPOで指導している子どもの一人が、「日本は若い世代の1人が老人3人を養う社会になるので、年寄りは早く死ねばよい」と書いた。確かに、財務省はそう受け取られることをウェブサイトに書いている。

隠れトランプのように、被告のような意見の持ち主が日本の社会に存在しており、なにかの拍子に表にでてくる可能性が常にある。

どうすれば被告の「思想信条」を裁けるか、あるいは、どこまで、被告の「思想信条」を裁いてよいのかが、今後の公判の課題である。
少なくとも、「日本が借金をしているのは、障害者や老人がいるかではなく、政権維持のため、保守政治家が支持基盤の企業家にお金をばらまいているからだ」と検察は被告に言うべきではないか。

[追記]
弁護人がよく精神疾患を心神喪失の根拠とする。これはやめてほしい。
そのような行為が、精神疾患に対する偏見を生む。そして、精神疾患の人間が生きていく場所を奪うことになる。
じっさい、軽い精神疾患者が共同で住むグループハウスを建てようとすると、地域住民の反対運動が起きて建てられなくなる。
事実は、精神疾患患者は犯罪を行う確率は健常者より少ない。そして、グループハウスには精神疾患患者をケアする担当者が同居する。
にもかかわらず、地価が下がる、子どもに危害が加えられる、と住民は反対の罵声を浴びせる。

津久井やまゆり園殺傷事件の被告が弁護人を解任したい

2020-01-22 21:17:50 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きょう1月22日で津久井やまゆり園大量殺傷事件の公判は8回目となる。今週の月曜日から弁護側の陳述がはじまっている。

この中で、けさの30分のJNNの面会で、被告が弁護人を解任したいと言った、とTBSが報道した。被告は、自分が大麻で心神喪失だったと主張してはいない。謝罪の気持ちを表したいから小指をかんだ、と言ったという。

最近、刑を軽くするための法廷戦術を優先させる弁護人が多い。ゴーンの特捜事件でも、大津の園児殺傷事件でもそうだ。そうではなく、弁護人は被告の主張を代弁するのが原則である。

裁判では、第1に、事実の認定である。第2に、それが社会的に許されるのか、許されないのかである。第3に、犯した行為につりあう刑罰はなにかである。

本件の被告は、殺傷した事実を認めているので、どのような意味で謝罪しているのかも、焦点になる。

「重い障害者は社会にいらない、不幸をもたらすだけだ」と主張しているのは、被告だけではない。だから、本殺傷事件は、本施設を利用していない、多くの他の障害者にたいしても、大きな恐怖を与えた。この裁判は、「重い障害者を殺害することが社会正義である」を裁かないといけない。被告が心神喪失だから、異常だから、過激だから、で済ませてはいけない。

きのうの公判で、弁護側が3人の医師の調書を読み上げたという。

毎日新聞 《2016年2月に措置入院した。2人の医師が「大麻精神病」「妄想性障害」などと診断しており、その調書も読み上げられた。》

時事ドットコムニュース 《一方、措置入院の際に被告を診察した医師の調書も朗読され、大麻による気分高揚が妄想の拡大に影響したと指摘した。》

産経新聞 《診察した医師の一人は、植松被告を「大麻精神病」と、「非社会性パーソナリティー障害」と診断。植松被告の「障害者を抹殺する」という思想は「被告の人格に根付いていると考えられる」としながらも、衆院議長に手紙を差し出すという行動に、大麻が影響を与えた可能性があるとの見方を示した。》と書く。

これだけでは、弁護側の主張はわからないが、医師の調書からは、「障害者を抹殺する」という思想は、「大麻」によって引き起こされたものではないとも読める。「大麻は気分の高揚に影響した」だけである。

私の経験からも、妄想には それなりの根拠がある。多くの場合、何らかの社会的通念が反映している。被告が措置入院になったとき、正常を装い、病院から出てきたと友人に語っているのを聞くと、「精神異常」だから、「過激思想」だから、では済ませられない。被告は自分を支持する人たちがいるとみている。

きのうの安倍晋三の施政方針演説は国民をなめている

2020-01-21 22:26:21 | 安倍晋三批判
 
きのうは、第201回国会の開幕で、安倍晋三の施政方針演説があった。全文が、官邸のウエブサイトにかかげられている。
 
読むと、その各見出しはこれまでと同じである。ただ、「1 はじめに」と「7 おわりに」とは、安倍晋三らしい響きがある。妙に感傷的である。
 
冒頭の「1 はじめに」は つぎではじまる。
 
《 五輪史上初の衛星生中継。世界が見守る中、聖火を手に、国立競技場に入ってきたのは、最終ランナーの坂井義則(よしのり)さんでした。
 八月六日広島生まれ。十九歳となった若者の堂々たる走りは、我が国が、戦後の焼け野原から復興を成し遂げ、自信と誇りを持って、高度成長の新しい時代へと踏み出していく。そのことを、世界に力強く発信するものでありました。》
 
締めくくりの「7 おわりに」は つぎではじまる。
 
《 「人類は四年ごとに夢をみる」
 一九六四年の記録映画は、この言葉で締めくくられています。》
 
別に感傷的な言葉を首相が語ることは悪いことではないが、間に挟まれた中身が悪い。安倍がキーワードを官僚に投げかけ、官僚が自分に都合のよいことを詰め込んだだけで、よくこんな身勝手な施政方針を安倍は平気で読み上げることができたのか、と思う。
 
たぶん、安倍は、日本国民がバカで だれも中身を気にせず、話し手の表情と声の調子だけで演説を評価している、となめきっているのであろう。
 
ここでは、「五 一億総活躍社会」を取り上げてみよう。ここは、(全世代型社会保障)、(子育て支援)、(一億総活躍社会)に、トピックが分かれている。
 
(全世代型社会保障)の本当の中身は、老人にたいする切り捨てある。年金の支給の開始時期を75歳まで遅らすことを、「年金受給開始の選択肢を、七十五歳まで広げます」と提案している。また、医療費に関しては、「七十五歳以上であっても一定以上の所得がある方には、窓口での二割負担を新たにお願いする」ことを提案している。
 
この老人切り捨て施策を、耳障りよくするため、この春から、大企業では、同一労働同一賃金がスタートします」と始める。そして、混乱させるため、「三千億円を上回る、ものづくり補助金、IT補助金、持続化補助金により生産性向上への支援」という、無関係な施策を挟んで、みなさん、年とっても働きたいでしょうと、「七十歳までの就業機会を確保します」と語る。
 
じっさいには50歳から老化が進み、若いときのように体も頭も働かず、賃金はさがり、若いものにバカにされる。日本では年功序列というが、そんなものは30年前のバブルがはじけたときから、崩れている。退職金の額をさげるために、退職近くの雇用者の賃金を意図的に下げる。一部の管理職だけが高い給料をとっている。普通の年寄りは安い賃金で働いているのである。最低賃金制が最後の頼みになっている。
 
(子育て支援)もよくわからない内容だ。
 
現状では、女の人が働くといってもレジやコンビニ弁当作りのような単純労働である。男の人の仕事の多くもそれと大差がない。そんなに、「一億総活躍」という素晴らしい仕事が世の中にあるはずがない。金持ちが収奪するためには、賃金労働者が必要である。賃金労働者の数をふやすために、「保育の受け皿整備を進め、待機児童ゼロを実現」しようとしているのではないか。親がこどもをいつくしんで育てることができる経済的環境、時間的余裕こそ大事ではないか。また、集団保育や教育の質を問題にしなければならないのでは。
 
(一億総活躍社会)では、パラリンピックに合わせて「バリアフリー社会の実現」を提案している。これに賛同するが、政府機関で障害者雇用の法規定を守っていなかったことに言及していないのは納得できない。政府は 障害者を「企画部門」で「政策決定」に 積極的に雇っていかないと「バリアフリー社会の実現」をできない。そうでないと、それを名目にして、自民党支持基盤の一部企業にお金が回るだけになる。何が「バリアフリー」かを判断するのは、障害者自身でなければならない。
 
もう一度言う。安倍は、日本国民がバカで だれも中身を気にせず、話し手の表情と声の調子だけで演説を評価している、となめきっている。

ファリサイ派をののしる福音書

2020-01-19 23:21:28 | 聖書物語


私が高校生のとき、パリサイ人をののしる福音書が気持ち良かった。

《偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。》『マタイ福音書』23章27節 口語訳

1987年、新共同訳では、「パリサイ人」は「ファリサイ派」になった。しかし、「ファリサイ派」をののしっていることに何も変わりがない。

私は老いて、福音書が「ファリサイ派」をののしるのが不愉快になった。『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』『ヨハネ福音書』のどれもが、「ファリサイ派」をののしっている。

しかし、私はもっと老いて、福音書がなぜ「ファリサイ派」をののしるかわかり、許せるようになった。

「ファリサイ派」をののしるのは、新約聖書のなかで、この4つの福音書に限られる。もちろん、福音書に先立つパウロの書簡群にも、「ファリサイ派」への ののしりはない。

そればかりか、パウロの『フィリピの信徒への手紙』3章5節と6節に次のようにある。

《わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 
熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。》新共同訳

すなわち、使徒パウロはファリサイ派の一員である。

初期キリスト教徒の福音書の書き手が、パウロを嫌っていたからではなく、紀元66年から70年のユダヤ戦争(ローマ帝国へのユダヤ人の反乱)でユダヤ人が負けた結果、コスモポリタンの初期キリスト教徒がユダヤ社会に居づらくなったからだ、と私は思う。

イエスは貧民反乱のリーダである。教養あふれた「教え」をする人ではない。倫理規範を話させたら、教養人ファリサイ派に勝てない。

イエスがどんな人であるか、何を述べたかは、今となっては わからない。カウツキーもハルナックもシュヴァイツアもアーマンもボーグもそう述べている。生前のイエスについて書いているのは4福音書しかなく、『マルコ福音書』『ルカ福音書』『マタイ福音書』は、イエスが死んでから約50年後に、『ヨハネ福音書』は約100年後に書かれたものだから、本当のイエスのことではなく、伝説かも知れないし、自分たちの教会の教えを述べているだけかもしれない。

福音書の伝説のなかでは、イエスは貧民に「神の国は近い」と言い、病人を癒し、おなかがすいたら、誰かをたより、みんなで飲み食いし、それができなければ、畑の麦の穂をもんで食べ、ガリラヤからエルサレムまで集団でさまよい、エルサレムでローマ人に反逆者として殺された。

その約40年後のユダヤ戦争に参加し負けた教養人から見れば、キリスト教徒は、カウツキーの言うように、ただのルンペン・プロレタリアートであり、掟を守らず、人にたかる消費共産主義者である。キリスト教徒は教養がないと ののしられたであろう。倫理規範ないと指摘するファリサイ派に、理屈では勝てないから、悔しくて悔しくて、ののしり返しているのが、福音書である、と思うようになった。

こうして、ののしりを許せるようになったが、この「ののしり」が正しい記述とは思っていない。

『ヨセフとその兄弟』 トーマス・マンのゲルマン的『創世記』解釈

2020-01-19 01:49:58 | 聖書物語

トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』(筑摩書房)は、ヘブライ語聖書の『創世記』のアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの親子4代にわたる砂漠の民の物語を題材にとっている。『創世記』の11章から50章が該当する。

マンのほうが、面白くないのである。もとの『創世記』のほうが、乾いた語りで、含蓄があって、ずっと面白い。マンの『ヨセフとその兄弟』は駄作のように感じる。日本人の誰も読んでいないのではないか。

マンは、ゲルマン人の北方神話をもとに、そして、ときには現代ドイツ人の合理性で、砂漠の民の『創世記』を読んでいるのではないか。私にはそれに 徹頭徹尾 共感できない。

ヘブライ語聖書に対する批判的な読み方は20世紀初めのドイツの自由神学者によってなされた。このなかで、「モーセの五書」のなかで『創世記』がもっとも新しく創作された物語であるとされ、定説になっている。

マルティン・ノートは『モーセ五書伝承史』(日本基督教団出版局)の中で、アブラハム、イサク、ヤコブは中東の東方(シリア、ヨルダン、アラビア地域)の別々の族長で、その伝承を親子という形でつないだ創作との仮説を述べている。

考古学者の長谷川修一は、アブラハムやイサクの物語に出てくる「らくだ」は、想定される3600年前には、中東で家畜化されていなかった、ラクダの骨が発掘できないという。すなわち、物語の舞台は、3000年前より新しいのだ。

それにもかかわらず、『創世記』のほうが『ヨセフとその兄弟』より文学として面白いのである。

『創世記』には押しつけがましい「教え」というものはないからだ。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、これらは、族長の「守り神」である。

マンは、『ヨセフとその兄弟』の冒頭に「序曲 地獄めぐり」という章をおき、『創世記』の自己流の解釈を置いているのだが、中身は「地獄めぐり」のイメージにそぐわない。彼の述べていることは、現代からみれば、お笑いぐさである。アトランティス大陸の植民者に言及することで、東方に対する偏見がうかがえる。ゲルマン民族は文明の外にいた野蛮人であることを、マンは忘れている。

文明はメソポタミア、ナイル川、インダス川、黄河と長江に起こり、メソポタミアとナイル川の文明がギリシアに引き継がれた。ギリシアの文明は直接ドイツやフランスに引き継がれたのではなく、引き継いだのはイスラム国であった。

マンは第1部第7章に次のように書く。

《東方の世界では、ヨーロッパの人たちにとって自然な厳密な時間計算は、ほとんど未知のものである。東方では時間と生活とを西洋よりずっと無関心に曖昧ななりゆきにまかせていて、時間を測定したり数えたりする経済的発想はない。誰も自分の年齢を問われることなどはまったく予期していないので、そういうことを問う人は、相手が肩をすくめてごく無造作に、何十年もの相違のあるあやふやな返答をするものと覚悟していたほうがいい。》

メソポタミアでも、エジプト(ナイル川)でも、他の古代文明の地でも、農耕のために、精密な暦が使われていた。星の位置が観測され、時を知るために、使用されていたのである。さらに、精密な暦をつくるために、星占いをするためにも、地球や惑星が太陽周りを円運動しているのではないことが、メソポタミアやエジプトで知られていた。地動説のコペルニクスはそれを知らず、円運動を仮定したため、イスラム国から輸入された暦より不正確になった。

マンの誤りは、東方に対する偏見とともに、ヘブライ語聖書が書かれた背景への無知によると思う。

ユダヤ人がヘブライ語聖書をもつにいたった背景は、アレキサンダー大王の遠征によって、地中海・中東にグローバル化の波が押し寄せ、各民族は自分たちのアイデンティティを求め、古い歴史をもっていると創作する必要があった。その結果、『創世記』では、登場人物の寿命はやたらと長い。別にユダヤ人がバカだからではなく、一種の「愛国感情」からくる。

また、マンは、第2部第6章でヨセフを兄弟が隊商に売却すると書いているが、これは昔から議論のあるところである。『創世記』37章28節には次のようにある。

《ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。》新共同訳

同じく、37章36節に次のようにある。

《一方、メダンの人たち(ミディアン人)がエジプトへ売ったヨセフは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルのものとなった。》新共同訳

すなわち、ミディアン人とイシュマエル人は同じか、穴からヨセフを引き上げ売ったのは兄弟かミディアン人かの問題である。新共同訳はミディアン人とイシュマエル人が異なることを重視し、穴からヨセフを引き上げ売ったのはミディアン人とし、37章36節をミディアン人がイシュマエル人に売ったヨセフがエジプトの役人に渡ったとしている。

ところが、聖書協会共同訳は、穴からヨセフを引き上げ売ったのは兄弟である、と解釈できる訳にしている。

トーマス・マンは、穴から引き揚げたのはミディアン人とし、兄弟は引き揚げられたヨセフを自分たちの召使だと言い、お金をミディアン人から せしめたとした。

聖書協会共同訳もマンも、ミディアン人とイシュマエル人とは同じだとしている。しかし、『創世記』16章11節でイシュマエルをアブラハムとハガルの息子とし、25章2節で、ミディアンをアブラハムとケトラの息子としているから、子孫のミディアン人とイシュマエル人とは異なる。すなおに、ヘブライ語聖書を読めば、新共同訳の37章28節の解釈しかない。

いっぽう、37章36節は、新共同訳のように解釈するには無理で、ヘブライ語からは、ミディアン人がエジプトの役人にヨセフを売ったとするのが自然である。したがって、『創世記』の作者が勘違いしているか、異なる伝承をそのままつなぎ合わせたとするほうが、良いように思える。

トーマス・マンは『創世記』を現代ドイツ人の合理性でムリヤリ解釈しているように思える。

マンのなんでもかんでも説明したがるところが、『ヨセフとその兄弟』を面白くなくしている。日本やアメリカでは彼の本は売れないだろう。