麻生太郎は、失言が多いと言われているが、わざと話しているのではないかと思うことが多い。麻生本人は、みんなに代わって、みんなの本音を話して、受けを取ろうとしているのだと思う。
7月4日に参院選の街頭演説で、「弱い子がいじめられる。強いやつはいじめられないんだって。違いますか。国もおんなじよ。強そうな国には仕掛けてこない。弱そうな国がやられる。そういうもんでしょうが」と麻生は言った。
新聞は、「いじめられる子が悪いのか」とこの発言を批判しているが、街頭演説を聞いている人たちはどういう気持ちで演説を聞いていたのだろうか。だれも、麻生の演説を聞いていなかったなら、それはそれでいいのだが、聞いて腹を立てない人ばかりだと、心配になる。聞いている人のだれかが「バカ野郎、ひっこめ」と麻生をなじるべきだったのではなかったか。
麻生の発言は「弱い子はいじめられてしかたがない」「弱い国は侵略されてしかたがない」につながる。麻生は、日本人の本音はそうだと思っている。「強い子は弱い子をいじめてよい」「強い国は弱い国を侵略してよい」と思っている。
日本人は麻生にそう思われて満足なのか。
日本には負の歴史がある。暴力集団、尊王攘夷派が暴力で明治維新に成功したばかりに、「富国強兵」が「正しい国策」になり、日本は、世界征服、戦争の道に歩むことになった。
私が小学校に入ってびっくりしたのは、クラスの男の子たちが、誰が一番強いか、二手にわかれて、毎朝、授業が始まる前に喧嘩することだった。手に はたきやモップやほうきをもって喧嘩するのである。片方の大将は表通りを挟んで向かいの髢(かもじ)屋の息子で、もう片方の息子は工務店の息子だった。ふたりは抜きんでて体が大きかった。
強い子はさらに誰が一番強いのか手下を作って争うのだ。国も同じだ。同盟という名のもとに属国をつくって争うのだ。強い国であることを選べば、それで安泰ではなく、一番強い国にならないと、属国にされるだけである。
私は暴力が嫌いだったから、男たちの争いに加わらなかった。それで、女の子たちが私によってきてくれた。孤独ではなかった。小学生のときは、いつも女の子と遊んでいた。
貧乏な国であるより、ゆたかな国である方がよいが、日本が「富国強兵」である必要はない。軍事強国になろうとすると、敵国より強力な軍備をもたない限り、抑止力にならない。中国より多数のミサイルを、ロシアより多数のミサイルを日本が持てるのか、冷静に考えないといけない。ミサイル一発の値段が、戦闘機なみの値段がする。軍事費を2倍にするだけですまない。そして、軍備を増強したら、じっさいに使って強いことを見せつけたくなる。戦争の道を歩むのである。軍事費のために「ゼイタクは敵」といって、ミサイルのために貧しい暮らしに耐えないといけなくなる。
私の場合、小学校高学年になるにつれて、自分が暴力的でないことが、肉体的に弱いということが、負い目にならなくなった。子どもたちは暴力をふるって威張る子が嫌いである。優しい子、思いやりのある子がクラスの中でリーダシップをとる。私も、いつのまにかオピニオンリーダーになっていた。
アメリカのだす決議案は国連のなかで圧倒的多数の支持を受けたわけではない。棄権が多い。アメリカを自分勝手だと思っている国が多い。
日本は「平和憲法」を恥じる必要はない。誇るべきである。「弱い国は侵略されてよい」と心の中で思っている国は、世界の鼻つまみものになる。
自民党や日本維新の会や国民民主党は、なぜ、暴力の道を進もうとするのか。私は彼らをリアリストだとは思えない。単に狂っているだけだと思う。