図書館から借りだしたトーマス・レーマーの『100語でわかる旧約聖書』(白水社)をきのうから読んでいる。原題は“Les 100 mots de la Bible”である。このmotsはイタリア語のモットーに近く、ヘブライ語聖書についてよく語られる100の言葉の1つ1つを1ページ程度で説明している。語の選択はキリスト教徒の関心に合わせたものと思う。
1つ1つの内容はかなり深く、理解するに予備は知識を必要とする。日本語のタイトルは詐欺でである。
レーマーは、ヘブライ語聖書の『申命記』『ヨシュア記』などは、アッシリア帝国の条約文、軍事宣伝文書の構成、語彙の影響を強く受けていると言う。聖書のヤハウェは戦いの神としても書かれているが、アッシリアの守護神、アッシュール神をモデルとしている。
彼は『申命記』のもっとも古い形は、ヨシヤ王の政治・宗教改革を擁護するために作られたとする。この改革は王が礼拝の儀式を独占的に管轄すること、王権の強化である。『申命記』の構成・語彙は、アッシリア王、エサルハドンが臣下に求めた息子アッシュルバニパルへの忠誠の誓約をまねていると言う。
レーマーは、「十戒」についても、ユダヤ教では10の戒というものはないという。聖書には「神が民衆に伝えたという戒律の数がまったく記されていない」という。
彼は指摘しないが、じつは、新約聖書にも、「十戒」がでてこない。私はキリスト教カルヴィン派の教会に通っていた時期があるが、毎日曜日の礼拝で「十戒」をみんなで唱える。私はオカシイと感じた。
このオカシナ行為は、人間に原罪があるという教条と通じる。レーマーは、聖書の『創世記』がエデンの園でアダムとエバが神に背いたことを罪としていないと主張する。これはユダヤ人に古くから知られていることで、私自身はエーリッヒ・フロムの指摘で知った。レーマーはさらに、聖書の『雅歌』と合わせて読むと、『雅歌』は、性愛の肯定と、性愛における男女平等を唱えているのだと言う。
私は、不登校、引きこもり、家庭内暴力の子どもたちと接するとき、彼らに罪はないということを全面的に打ち出す。「原罪」という考え方をしていたら、救える子どもたちを救えなくなる。「原罪」はパウロの書簡の読み間違いから発生したのではないかと思っている。
レーマーは、出エジプトを歴史的出来事ではなく、1つの「神学的産物」とする。イスラエル王国やユダ王国の滅亡のとき、一部の人びとはエジプトに逃げている。エジプトは「単なる抑圧の地であるばかりか、安住の地や受け入れの地として描かれている」と主張する。
レーマーは、聖書に、捕囚から解放されたあと、ディアスポラを選択する人と100年前の地に帰ろうとする人の思想の違いと対立が反映されているとする。多くのユダヤの人はディアスポラを選んだという。
レーマーは、モーセ、ダビデ、ソロモンも実在した人物とは考えられないと指摘する。モーセ―を、ジークムント・フロイトの指摘を想定してか、エジプト人かイスラエル人かわからないと言う。長谷川修一は、イスラエル王国とユダヤ王国が統一された時期があったとする『列王記』の記述を否定するが、この問題に対しては、レーマーは言及していない。
とにかく、本書は内容が盛りだくさんで深い。