猫じじいのブログ

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政治家が旧統一教会とどう結びつこうが政治家の勝手でいいのか

2022-07-20 23:51:00 | 政治時評

きのうの日テレの『情報ライブ ミヤネ屋』で、有田芳生が旧統一教会の政界浸透を批判しているとき、野村修也が旧統一教会の反社会性が示されなければ、政治家が旧統一教会と結びつこうが政治家の勝手でしょうのようなニュアンスのコメントを行った。

私は、宗教団体が社会問題に関心を示し意見を表明することは宗教団体の自由だと思うが、政権にロビー活動するのは望ましくないと思っている。創価学会が公明党を通じて政権に参加するのも同じく望ましくないと思っている。

宗教団体が、大衆に向かって経済格差や平和や妊娠中絶の問題に意見を表明している限りでは、大衆の一人ひとりに、それに賛同するか否かの自由が残されている。国民主権が侵害されるまではいっていない。

ところが、宗教団体が、政界にお金を献金するとか、議員の選挙運動を直接支援するとなると、国民一人ひとりの判断を飛ばして、政治を左右できるようになる。とくに、50%の国民しか選挙に参加しない日本では、宗教団体による政治への直接介入となる危険が高い。

それゆえ、政治家のひとりひとりが旧統一教会とどのような結びつきがあるかは明らかにすべきである。安倍が旧統一教会の信者だと知っていたら、安倍政権を支持できない人もいると思う。公明党の山口那津男は今回の件で安倍晋三に裏切られたと思っているように見える。

政治家が特定の宗教団体に帰依するのは、信教の自由という建前からは、勝手である。しかし、隠していれば、選挙民は騙されたと思うし、その宗教団体に対する便宜を選挙民に明らかにすべきである。宗教団体が政治家に求める便宜の多くは、宗教団体の違法行為のもみ消しである。

宗教団体の非科学性や反社会性は明らかのようで明らかではない。というのは非科学性や反社会性は程度の差があるが、おおかたの宗教団体が持ち合わせているからだ。

天国や地獄の存在は、キリスト教のゲルマン社会への土着化によって生まれたもので、新約聖書、旧約聖書には天国や地獄は出てこない。仏教も、もともとは極楽や地獄は心の状態を表わすものにすぎなかったのだが、現在の仏教系団体の多くは、「方便」という考え方によって、超自然な力が存在するような語りをする。だいたい「法華経」もおとぎ話のような話を平然と語る。仏典はクソである。こんなものをありがたがる団体はろくでもない。

反社会性はもっと判断が難しい。信仰をもつことは、懐疑の精神を放棄することだから、何かを信じることを強要する宗教は、もともと、クソである。権威をもつ個人または集団がいて、その人たちの言うことを他の信者たちが学習するということは、根本的に危険なことである。何が正しいか、何が間違っているのか、は、個人の利害によって異なってくる。社会を維持するために、話し合いで利害を調整していかなければならない。それを権威をもった個人ないし集団が決めて、他に強要する宗教団体は、そのこと自体のゆえに反社会的だと私は思う。

献金が必要な宗教団体もおかしい。教義に納得しても、献金する必要がない。お金を好む神様なんて、いるはずがない。ところが、神社や寺院の賽銭箱にお金を投げ入れる人がいる。賽銭箱からお金を盗んだと怒る僧侶がいる。みんなクソである。

宗教団体は献金されたお金はどのように使われたかの収支報告を公表すべきである。献金の使途は、どれだけが宗教団体の世話役の人件費で、どうれだけが施設費で、どれだけが貧困や災害で苦しんでいる人への支援金なのか、公表すべきである。宗教法人の収支報告を詳しく調べる人たちがもっといてよい。宗教団体から給与をもらっている人は税金をはらうべきである。

ほかの宗教団体も怪しげだから、旧統一教会を大目に見ましょうでは、異常に多額な献金で苦しめられた人たちが浮かばれない。

野村修也が旧統一教会をかばったのは、ほかの宗教団体も同様と思ったからか、それとも、政治家に非難が向かうのを事前に防ぎたかったからは、私にはわからない。