きょうTBSの『ひるおび』で日本人が「投資」しないという話しがでた。なぜ、そんな話が出たのか思い出せないが、そのとき突然、新約福音書の「タラントのたとえ」が私の頭に浮かんだ。
「タラントのたとえ」は『マタイ福音書』の25章14節から30節にかけて書かれている物語である。書き出しはつぎのようである。
「天の国は、ある人が旅に出るとき、しもべたちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」(マタイ福音書25章14節)
この節自体、わたしはうさん臭く感じる。後から誰かが書き加えたのだろう。「天の国」とは、ギリシア語で「天が支配すること」を意味する。
その主人は「しもべのそれぞれの力に応じて、1人には5タラントン、1人には2タラントン、もう1人には1タラントンを預けて、旅に出た」という。1タラントンは数千デナリウス銀貨と言われ、1デナリウスは1日分の日雇いの給料だったと言うから、とにかく大変な額である。
5タラントンを預かったしもべは取り引き(ἠργάσατο)で5タラントをもうけ、2タラントンを預かったしもべは2タラントンをもうける。当時の規模の大きい取り引きは、いまでいう「貿易」のようなもので、途中で盗賊団に遭遇するかもしれなく、もうけが大きいがリスクの大きい行為である。
旅から帰ってきた主人は、もうけた彼ら2人を「良い忠実なしもべ」とほめる。
ところが、1タラントンを預かったしもべは、なくして主人にしかられることを恐れ、地中に埋めて隠しておいたので、お金は増えていない。主人のことを「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方」と言って、埋めていた1タラントンを返す。
主人は「それなら、私のお金を銀行(τραπεζίταις)に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、そのしもべを外の暗闇に追い出す。そして、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」とのたまう。
「銀行」というが金貸しのことである。ギリシア語τραπεζίταιςとは両替商が商売するときのテーブルのことで、両替商のテーブルにお金を置くと、後で利息(τόκῳ)とともにお金が返ってくるが、大もうけはできない。なお、ユダヤ教やイスラム教では利息をとる金貸し業は社会的に容認される職業ではない。
この主人は、金貸し業を肯定しているだけでなく、貧富の差を拡大する社会構造を肯定している。
この物語は、25章14節に「天の国とは・・・」とはじまるので、牧師は大まじめにこれを聖書の良い教えとして信徒に説明しようとして、道徳的困難におちいる。もちろん、一生懸命働いてお金をもうけることは、プロテスタントのカルヴァン派では肯定される。特にリスクを冒してお金をもうけたのは神に愛されている証拠であると考える。
ところが、私の近所のカトリック系中高一貫校の神父まで「リスクを冒せ」というイエスの教えだとして、大胆にもネットでその説教を公開している。カトリックは人間の弱さを肯定する宗派であるから、リスクを冒さない人を非難してはいけないはずである。その神父は、カルヴァン派に影響されて、カトリックの道を踏み外しているのではないか、と私は思う。
岸田文雄は「資産所得倍増計画」と言っているが、その中身は金融商品を買えと言っているにすぎない。ハイリスクハイリターンのゲームに参加しろと言っている。産業資本主義は生産設備に投資しましょうということだから、人の道にまだ反していない。ところが、アメリカの金融資本主義となると、投資がギャンブルになって、物の生産やサービスに結びつかない。なぜ、こんな岸田政権を支持する人が存在するのか、私は不思議でたまらない。
岸田文雄は「タラントのたとえ」をイエスのありがたい教えだと思いこむ牧師や神父と同じ知的レベルの低さなのだろうか。それとも、彼の道徳意識が低いのだろうか。
「タラントのたとえ」と類似した物語が『ルカの福音書』19章17―23節にある。これはもっとおぞましい話で、「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」で物語が終わる。