きょうの朝日新聞に、安倍晋三が殺されたことに対する宇野重規のコメントが載っていたが、その趣旨が私にはわからなかった。
彼は「新聞や政治家が示し合わせたように『民主主義への挑戦』と表明したことに違和感がある、というのは自然な感覚だ」と言う。ここまでは、理解できる。
しかし、彼が「個人的な一種の逆恨みであり、アクシデントだから、政治的な問題ではない、民主主義とは関係がないとする考えは、非常に表層的。そうした理解には異議を唱えたい」というところから、論点がおかしくなっている。
「アクシデントだから」の意味が良くわからないが、「恨み」による殺人はくだらないと彼が思っているのではないかと思う。殺人の多くは「恨み」であり、「恨み」を招いた事実があることをバカにすることはできないと思う。
私が彼に期待していたのは、旧統一教会の政界浸透を問題視することである。安倍晋三が2013年に再び首相に返り咲いたとき、新宗教が安倍の心の支えになった、とNHKが特集番組で報じていたが、それが旧統一教会とは私は知らなかった。
日本の憲法は、「信仰」の自由を保障する。しかし、「信仰」とは、特定の教義や崇拝対象に忠誠を誓い、疑わないことである。ということは、自己を放棄することである。非理性的になることである。したがって、「信仰」をもった集団や組織にとっては「正義」であっても、その外の人にとっては「脅威」になりうる。したがって、宗教団体が権力をもって教義、崇拝、献金を社会に強要しないように、憲法はタガをはめている。
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憲法20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
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宇野重規は「投票を通じて意思を表明したり、不当にお金を取られたなら世論や裁判所に訴えたり、といった行動をとることができたはず」と安倍殺害の犯人を攻撃する。ずいぶん上から目線でものを言うのだと、私は驚く。
現実問題として、犯人はツイッターに統一教会の批判を書きつづる以上のことができただろうか。SNSに多数の人が投稿するから、なかなか社会的インパクトは持ちにくい。有名人のツイッタ―以外はなかなか読まれないのである。安倍殺害ではじめて犯人の言い分が多くの人に伝わったのである。
つづけて宇野は「なによりもまず、安全の回復が急務です。自分の意見を言っても危害が加えられることはないという、民主主義の基盤が揺るがされています」という。
確かに、自由に意見が言えるためには、言ったことで危害が加えられないことが原則である。それを保障するのは法に基づく警察権力の仕事である。しかし、警察権力のトップが旧統一教会に配慮していたらどうなるだろうか。
宇野は「日本は、成熟した民主主義国家です」というが、民主主義国家とは、みんなが政治に参加でき、そして、実際に参加している国家であって、誰かが誰かを一方的に統治するなんてありえないはずである。とすれば、教祖さまがいて、教団組織が信者を指導して、献金や選挙運動の奉仕をせまったり、また、教団組織と政治家がgive-and-giveの関係にならないはずである。日本は、まだ成熟した民主主義国家ではなく、これから、みんなの努力で民主主義を実現しないといけないのが実情と思う。