敬語を尊敬と謙譲に分けるのは古典文学の解釈から起こったと考えてよい。学生時代に文学を源氏物語に学びそこで恩師となる教授から聞いた話しが謙譲用法による尊敬という解釈であった。そのころに教育の現場でもその考え方が導入されたようにも思う。演劇の役割を振る、仕手と脇の配置で敬語を解説する方法も行われた。敬語の表現をすべて尊敬と謙譲による敬意表現と解釈しようとしたもので語法に謙譲の名がそのまま残されたことになる。謙譲の用法は何に対してのものかと言えばそれは尊敬の対象となるものと言えるので文学上の記述解釈には適していた。そこで謙譲をそのままに時代様相にすれば言語表現の実態にそれは身分、地位の上下に成立する。その謙譲の考えをそのように解釈したのは一方で教育における謙譲を説明することのむずかしさであったのだろう。これは推測にすぎないが日本歴史における身分制社会を説明する困難さがあったと思われる。謙譲をそのままに敬語用法の解釈を立てたのは便宜であったがそれを現代語の用法に持ち込んでいるのは日本語の表現をわかりにくくしてしまっている。 . . . 本文を読む
敬語の規則を語法にみると、敬語動詞がある。する に対して、します と言うのは、敬語動詞としての使い方である。また、 いたす なさる それぞれ動詞の丁寧 します について、いたします なさいます となるが、いずれも発話の形式として扱うことができる。いわば語法としてことばを定形とみることになる。敬語動詞は限られた語を分類する。たとえば、言う については、おっしゃる がある。行く 来る については、いらっしゃる がある。いる についても、いらっしゃる と使うので、いらっしゃる は、その用法に応じて敬語動詞の意味がある。おっしゃる いらっしゃる について、おっしゃいます いらっしゃいます と、発話の語形となる。また、行く については、まいる と言う話し手の行為としての敬語動詞がある。まいります と言えば、その話し手が、行きます と表現をして、丁寧さを加えたことになる。 . . . 本文を読む
原発 噴火で甚大被害 20131222中日新聞トップ記事、見出しである。横見出しには、火山学者警告 山体崩壊で津波・土砂直撃 とあり、リードには、国内の火山の特徴に精通する金沢大名誉教授(火山地形学)の守屋以智雄さん(76)=愛知県新城市=が、噴火が原発にもたらす危険性を分析した論文をまとめた、とある。解説する記事には、活断層より火砕流が深刻 と見出しにして、日本はせ界の活火山の約1割を有する大国だが、これまで原発への影響は十分に調査されてこなかった、と書き出している。火山学者もあまり積極的に発言してこなかっただけに、守屋さんの論文は波紋を広げそうだ、とする。論文は雑誌、科学1月号、岩波書店発行に掲載されるようだ。 . . . 本文を読む
きょうは、北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日であり、暦便覧では、日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也、と説明している。大雪から冬至へ、節気は遷り、小寒までの、冬至である。古代には、冬至を1年の始まりとしていた。朔旦冬至ということがあった。暦の周期に11月1日が当たるのを、政治がよく行われている証としたようだが、1870年の朔旦冬至の際に明治政府は古い因習として、こうした儀式は行わないこととしたと言う。これまでで最後の朔旦冬至は1995年、次の朔旦冬至は2014年である、ようだ。日本では慣習的に、一年中で最も昼が短く夜が長い日のことを冬至と呼ぶことがあるが、1年で日の出の時刻が最も遅い日、日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しないことがある。日の出が最も遅い日は冬至の半月後頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の半月前頃となる。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 910 都市を覚醒せよ を例題にしている。コラムの解説で、正しくは、都市を覚醒させよ という意味内容であって、使役表現にする必要があるとする。都市を覚醒する という言い方ができるかどうか、都市をめがさめる とは言えないとしているのであるが、都市が覚醒する、ならば言えるのであろうか。このキャッチは愛知トリエンナーレで使われている。それをおかしいと感じたのならば、都市を覚醒させよ と理解しようとするか、都市の覚醒 について、覚醒をしろ との、都市にいる自分たちを含めた都市そのものが目覚めよと、呼びかけるものだと、理解しようとするかで、その捉え方が変わってくる。都市を対象にするには違いないが、目覚めることは、都市そのものを作り上げる作り手にあるわけだから、都市を覚醒せよ、とうたってきたのである。覚醒させよ という使役は、そこには都市にいる人たちを対象とした、ほかの働きかけがあるだけで、都市を作り上げることには程遠いだろう。 . . . 本文を読む
明晰でないものは日本語とは言えまい ある警句から、とあって、コラム今週の言葉にこの語句を随筆家が語っている。いわく、フランス語を習いはじめた最初の文章が、明晰でないものはフランス語でない、という警句だったそうである。これを日本語の合成語、成句の明晰さに及んで、話題にしたのは、特定秘密保護法だった。隔靴掻痒を覚えるというのだから、それはそれでよいとして、この法の命名に、機密保全法、防衛機密保護法、というふうに、限定すべきでなかったかと述べている。まあ、これもこれでよいとして、秘密と機密の語の意味の違いをとらえてのことだろうから。というのは、秘密について当時者同士での事柄が機密に変えて解釈している。さて、この議論の向きでいえば、いわば秘密保護法のことを言っているにすぎなくて、くだんの、特定秘密保護法の、特定については議論していない。それはどうも第三者機関が関与するというところで解釈を済ませているのか、言い得て言い得ないところであるから、このコラム子が言う、一定のことがらが国家によって恣意的に隠ぺいされて保持されてゆく、それを保持されていかないように防ぐ法案の、特定秘密阻止ではなくて、秘密特定阻止法案というところには、説得性がない。 . . . 本文を読む