ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸に縁のある女性

2018-03-19 19:17:31 | 水戸

徳川吉子(とくがわよしこ 文化元年1804- 明治26年1893)
 有栖川宮織仁親王(ありすがわおりひとしんのう)の娘で、斉昭の正室、10代水戸藩主慶篤(よしあつ)や慶喜の母だそうです。幼称が登美宮(とみのみや)、没後、文明夫人と諡(おくりな)されたそうです。「天さかる ひなにはあれと さくら花 雲のうへまで さき匂はなん」(写真)と詠っているように、江戸の水戸藩邸に嫁いだ時の、鄙(ひな)の地に向かうという気持は、和宮(かずのみや)と同じだったのでしょう。斉昭は、正月には吉子を上座にすえて賀礼をしたり、吉子の見られない軍事演習・追鳥狩(おいとりがり)を、屏風に再現してみせたりしたそうです。明治になって6年までの4年間を好文亭梅の間で過ごし、その後、東京小梅に移っていったそうです。写真は弘道館庭にある徳川吉子の歌碑拓本です。

 

中島歌子(なかじまうたこ 弘化元年1845- 明治36年1903)
 江戸日本橋に生まれ、父の養子先の水戸藩定宿・池田屋で育ったそうです。水戸藩士で天狗党に属した林忠左衛門に嫁したそうですが、忠左衛門は元治甲子の乱の中で獄死し、歌子も獄に繋がれたそうです。放免後、加藤千浪の門に入り和歌を学び、歌塾・萩の舎をを開き、多くの門人を得たそうです。樋口一葉は門人だったそうですが、共に頼りにする関係でもあったそうです。

 

山川菊栄(やまかわきくえ 明治23年1890-昭和55年1978)
 母は、彰考館総裁だった青山延寿(のぶとし)の娘で、山川菊栄は東京で生まれたそうです。大正5年に山川均と結婚し、戦後初代労働省婦人少年局長になったそうです。その後、婦人問題懇話会を設立し、没後、山川菊栄記念会が山川菊栄賞を設けたそうです。社会主義の視点から婦人解放運動に携わったそうです。昭和49年に出版されたその著、「覚書 幕末の水戸藩」は水戸を知るための一番と思える良書です。

 

徳川幹子(とくがわもとこ 明治35年1902-平成8年1996)
 父は慶喜の子で池田家に養子で入った、池田藩14代池田仲博(なかひろ)、夫・宗敬(むねたか 水戸徳川家の生まれ)は、一橋徳川家12代当主で東京帝大農学部出の林学の専門家だそうです。終戦後、東京の家がGHQに接収されたため、リュック姿で、夫の用意した水戸の丹下にある開拓地へ入植したそうです。「今日よりは ふる里になりぬ この夏野」の句がそのときの気持だったそうです。開拓の仲間などからは、徳川のおばんつぁんと呼ばれつつ、小さな体だったそうですが、開拓に従事したそうです。昭和30年に全日本開拓者連盟婦人部を設立し、全国を回って開拓者のリーダーとして活躍し、昭和59年には夫・宗敬(むねよし)と共に、一橋徳川家の伝来品5,600点を茨城県(茨城県立歴史館で、保管・展示)に寄贈したそうです。

 

森英恵(もりはなえ 昭和1年1926-)
 島根県出身で、昭和26年に東京新宿に洋裁店「ひよしや」を開設したそうです。昭和40年にニューヨークコレクションに参加し、昭和52年にはパリに進出し、その後、日本人で初めてパリのオートクチュール組合会員となったそうです。平成10年に、水戸芸術館の運営や事業に携わる水戸市芸術振興財団の理事長に就任し、平成21年には水戸市文化栄誉賞を受賞したそうです。

水戸に縁のある人

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