19代横綱・常陸山
すぐ近くに那珂川が流れる地でうまれた常陸山は、少年時代、すぐそばにある水府流下市(しもいち)稽古場で、水練師範の石川竜門下生として教えを受けたそうです。「河童の谷公(市毛谷右衛門)」とあだなされるほど、水術の達人の域に達していたそうです。若い頃からの運動能力がよくわかる話です。写真は、東照宮(宮町2-5-13)にある、大きな常陸山の碑です。
小川芋銭
河童の画家といわれた小川芋銭(うせん)ですが、河童はその時代に見えなくなったものへのこだわりだったような気もします。芋銭の名前は、描く絵が、芋代位になればといった感じだったようです。水戸の新聞いはらきに絵を掲載したそうです。酒好きだった芋銭は、大工町では芸者衆に河童をえがいたりしたそうです。写真は、得月院(牛久市城中町258)にある芋銭の墓です。
手継(てつぎ)大明神
市杵姫(いちきひめ)神社の境内社である手継大明神は、現在の小美玉市の手接神社が勧請されたようです。手接神社の伝承では、芹沢という殿様が乗った馬が進まなくなり、見ると馬の尻尾を引っ張る河童がいるので、殿様はその手を切り取ったそうです。その夜の夢枕に河童が現れ、あやまったのでその手を返すと、毎日魚を届けると約束したそうです。ある日、約束の魚が届かなくなり、死んだ河童が見つかったそうです。殿様は河童供養の社をたてたそうで、それが手継神社になったそうです。写真は、市杵姫神社(本町1-6-17)にある手継大明神です。
河童の御登城
延享1年(1744)7月1日に赤沼に住んでいた横山という水練上手の武士が、増水した那珂川で溺死したそうです。河童の登城を邪魔したからといわれ、その日には水泳を行わないことになったそうです。昔、河童は、狐などと同様、日常的な異形のものだったようです。
川っぱれ餅(川浸り餅、カーピタリ餅)
上大野では、河童に引かれないように、12月1日には川に餅を一つ供えたそうです。上中妻では、河童に引きこまれないように橋の上から餅を投げ入れたそうです。柳河、大塚などでは、水神に餅を供えるといわれたそうです。
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