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水戸で子供時代を過ごした徳川慶喜の話(1)

2022-02-10 14:16:00 | 水戸

 徳川慶喜は江戸の華美な風に当たらないようにと、生後七ヶ月足らずで江戸の水戸藩邸から水戸に移され、弘化4年(1847)、9歳で一橋家相続のために江戸に移るまでの9年余りの子供時代を水戸で過ごしたそうです。写真は弘道館で見た晩年の慶喜です。現在と全く違った常識の中で生活や教育がなされているようですが、何か今の私たちにとって役立つことはないのでしょうか。

 

 「七郎君ハ天晴(あっぱれ)名将ニ可被為成(ならせらるべし)、乍去(さりながら)悪しく御出来被成候(おできなされそうら)ヘハ(ば)御手ニ餘(あま)り可被成(ならるべし)」(七郎麿(慶喜)は、立派な名将になるだろうが、悪くすると手にあまるようになるだろうといった感じでしょう)と、父親の斉昭はその才能を認めていたそうです。

 

 まりというお付きがいて、子供を育てるのが上手で、慶喜がきかないときには、蚊帳にくるんだりしていましめたそうですが、慶喜はまりをおそれたものの、誰よりも親しんだそうです。まりは、慶喜が一橋家に養子に行ってからも仕えたそうです。

 

 斉昭が、慶喜の傳役(もりやく 養育係)である井上甚三郎への書簡で、庶子は嫡子と違って望まれれば養子に出すのであり、自分の力で長く教育することはできないので、養子先で我が家をはずかしめないために、文武ともに怠りがないようにといっているそうです。しつけはきびしく、着物や布団には絹は使わず木綿か麻だったそうで、食事は一汁一菜だったそうです。

 

 読書が嫌いで武術ばかりに熱を入れ、罰として灸を据えられても、陰気な本を読むよりは楽だと強情を張ったそうです。でも、斉昭の命で座敷牢に入れられ、食事も禁止されたのには閉口して、学問にも励むようになったそうです。こうしたところは、頼房以来水戸徳川家の伝統とでもいうのでしょうか。

 

 家臣と歩打毱(ほだきゅう 杖で毱(まり)を打って門に入れる競技)をした時、手で毱をすくったことを取り繕ったそうです。それを見ていた傳役(もりやく)の井上甚三郎は、自分がお相手しようといって、数十の毱を笊(ざる)に入れて、一気にゴールの門に投げ入れて、慶喜が卑怯なことをするなら自分はこのようにすると顔色を変えて諌めたそうです。

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