玄桐筆記に書かれた光圀の話です。ここには井上玄桐がい合わせた、藤井紋太夫事件の詳細も書かれています。写真は心越禅師の死をを悼んだ祇園寺にある光圀の詩碑です。
若い頃、暗い中を娼家から帰るときに、屋敷近くが火事で昼のように明るくて、屋敷に忍び込めないので、出入り商人が持っていた水籠(みずかご)を自分で持って、海北孫衛門の者だといつわって帰ることができたそうです。こうした反抗期時代の話はいくつもあるようです。
本などを読んでいるとき、お付きの家臣達がどれほどにぎやかに談笑していても、苦にすることはなかったそうです。
子どもを教育するとき、折檻するのは益がないばかりか、気力を損じてよくない、子どものしたいままにさせて、機会を見て本人が納得するように導くことが大事だといっていたそうです。
紙は多くの苦労の結果作られるのだから、むだに使ってはいけないとして、隠居後は新しい紙は使わず、反古(ほご)の裏側をはがして使っていたそうです。また、反古の白い部分を切り抜かせて、すき返させたりもしたそうです。
農村への御成(おなり)で、農家に泊まるとき、戸障子が開けられないように差し込む棒は1~2本あればよい、地震などの際にかえってまずいし、不審者が侵入しても自分は夜さといから防ぐことができるとして、そのように実践していたそうです。隠居場の西山荘では番所も垣根もなかったと書かれています。
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