村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読んだ。
訳者あとがきが44頁もあり、とても読み応えがある。
そこにある通り、たしかに『グレート・ギャツビー』に通ずるものがあった。
そして、『羊をめぐる冒険』の「僕」や「鼠」を思い出す。
春樹さんの言葉を借りれば「深い憂愁と孤絶感」を感じるのだ。
マーロウがテリー・レノックスと会う本当の最後になった場面に、
こうある。
「君は私の多くの部分を買いとっていったんだよ、テリー。
微笑みやら、肯きやら、洒落た手の振り方やら、
あちこちの静かなバーで口にするひそやかなカクテルでね。
それがいつまでも続けばよかったのにと思う。元気でやってくれ、アミーゴ。
さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。
それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった。」
(『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳 早川書房)
マーロウは前回、恐らく今生の別れになるであろうと思われた時に
テリーに残すことができる部分をすべて与えてしまったにちがいない。
マーロウはその分少しだけ死んだ。
あるいは失われた。
この感覚が読んでいる側にも移り、余韻を残す。
参考)さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ。
この一節はフィリッピ・マーロウがリンダ・ローリングとお別れをする場面で
使用されている。
さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。
階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、
セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。
みぞおちに鉛のかたまりのようなものが残った。
フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。
フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、
どれもがうまくつぼにはまる。
さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ。
訳者あとがきにはこう説明がある。
一般的にはフランスの詩人エドモン・アロクールの
「離れるのは少し死ぬことだ。それは
愛するもののために死ぬことだ どこでもいつでも、人は
自分の一部を残して去っていく」
という詩が元ネタになっているとされている。
訳者あとがきが44頁もあり、とても読み応えがある。
そこにある通り、たしかに『グレート・ギャツビー』に通ずるものがあった。
そして、『羊をめぐる冒険』の「僕」や「鼠」を思い出す。
春樹さんの言葉を借りれば「深い憂愁と孤絶感」を感じるのだ。
マーロウがテリー・レノックスと会う本当の最後になった場面に、
こうある。
「君は私の多くの部分を買いとっていったんだよ、テリー。
微笑みやら、肯きやら、洒落た手の振り方やら、
あちこちの静かなバーで口にするひそやかなカクテルでね。
それがいつまでも続けばよかったのにと思う。元気でやってくれ、アミーゴ。
さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。
それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった。」
(『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳 早川書房)
マーロウは前回、恐らく今生の別れになるであろうと思われた時に
テリーに残すことができる部分をすべて与えてしまったにちがいない。
マーロウはその分少しだけ死んだ。
あるいは失われた。
この感覚が読んでいる側にも移り、余韻を残す。
参考)さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ。
この一節はフィリッピ・マーロウがリンダ・ローリングとお別れをする場面で
使用されている。
さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。
階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、
セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。
みぞおちに鉛のかたまりのようなものが残った。
フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。
フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、
どれもがうまくつぼにはまる。
さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ。
訳者あとがきにはこう説明がある。
一般的にはフランスの詩人エドモン・アロクールの
「離れるのは少し死ぬことだ。それは
愛するもののために死ぬことだ どこでもいつでも、人は
自分の一部を残して去っていく」
という詩が元ネタになっているとされている。
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