明治維新が来たのは、1868年。
いまから約130年前。
そのときに、初めて 日本に法律というものが出来た。
それまでも、もちろん法律らしきものは あったにはあった。が、それらは、人間の不平等を堂々と謳ったものであって、中には斬り捨てごめんなどという、物騒なものまであった。
したがって、それらが法律だと呼ぶには、あまりにも 非文化的であり、かつ、国際社会では通用しないものである と当時の文化人たちは、考えた。
実際に、日本には外国人たちが寄留し始めており、それまでは、彼らを日本の法律で取り締まることができなかった。
日本に居住する外国人を日本の法律で取り締まることができたのは、明治維新より、さらに後のことである。
もっとも、平成になっても、取り締まれない外国人たちがいる。
いうまでもないことだが、米軍基地のアメリカ人のことだ。
日本とアメリカは不平等な立場である。
平等とは、今の場合で当てはめてみれば、日本の基地もアメリカ国内にあり、そして、そこにいる自衛隊員たちも、アメリカ兵と同じくして、治外法権を持つということではないだろうか?
アメリカは
日本を、兄弟だとか、友人というけれど、少なくとも 私個人の感覚では、こういう関係を友人だとか、兄弟だとは とらえることができない。
もちろん、多くの日本人にとっても、鬱屈とした気分が常にあるはずだ。
それは、米軍基地に近いところに住んでいる人ほど、強く持っている気分だろう。
日本が当たり前の国になるためには、まず米軍が国内からなくなるということが、ひとつの前提であるだろうし、そうなると、当然軍事費が大きくなり、場合によっては中国ともやりあう覚悟も必要になってくる。
いずれにせよ、それも危険だと考える人もいて、日本はいつもその大国の間に 顔色をみているしかない。
ここで、沖縄について言えば
かつて、中国と朝貢貿易を行い、日本とも薩摩藩との間に多くのさとうきびの貿易を行い、近代になってアメリカがそこに入り、本当に多くの大国(この大国の中には、日本もまたあるいは、台湾も入るのだ)から翻弄されながらも 器用に生き延びてきた。
そのスケールは、沖縄の人々が考えているよりも相当に大きいものであったはずだが、沖縄の人々は いつも、どこか緊張感のない笑顔をみせている。
とても ヒューマニズムにあふれた彼らの屈託のない笑顔は、どうしてこんなに過酷な歴史を乗り越えてこれたのだろうか?と不思議に思わせるほどのものだ。
いや、もしかしたら、そういう彼らだったから、乗り越えることができたのかもしれないな・・・などとも思える。
日本がひとつになった。
そうテレビではよく言うようになった。
私は、そうは思わない。
日本は、深く分裂した。
それは、金儲けをしてきた原子力発電所とそれを受け入れてきた自治体と そして 今後高くなる電気料金と、税金のなかで、深く深く、そして長い期間・・・おそらく私たちの孫の代まで傷ついたのである。
ただ、ひとつの それもとても日本的な見方をして言うならば・・・
昭和の時代
戦争が終わり 玉音放送があって、そのとき日本人は、昭和天皇との間に、ひとつの契約がなされた。
それは、マッカーサーを受け入れるということであり、アメリカを受け入れるということであり、また、もう一度頑張るという結束であった。
人々は、涙を流しながら、あるものは決意を新たにし、あるものは 何もかも失った虚無感に襲われ、あるいは悔しがり あるいは歓喜した。
それは、それぞれの胸のうちにあった、個別のものであったとしても、ひとつの区切りができたわけだ。
平成は、昭和から、なんとなく「変わった」
なんとなくの中には、多くの正と負の遺産が含まれており、それを人々は、ただ あまり考えずに受け入れれば それでよかった。
そして、今回の地震。
平成23年 3月11日と言う日
大きく地震が起こった。
そして、数日後・・・
価値観は、大きく覆され、図らずも 平成天皇の玉音放送が流れ、新たな天皇との契約が為された。
それを持って、日本がひとつになったというならば、そういう意味では、正しいだろう。
天皇は、被災地に向かい、かなりスプリチュアルな見方で言うならば、そこで、祈祷をなされた。
これが、新たな契約であったかもしれない。
繰り返すが、この意味では日本はまたひとつになった。
ただ、何を受け入れるのか?と言う点では、分からないままの・・・方向性のないひとつになったのである。
偶然、原子力発電所の事故が同時多発的に起こったことは、しかし、我々の生き方にたいして ひとつの大きな選択肢を与えることとなったと 私は観ている。
それまでの 繁栄と虚栄の時代から、人間性とライフスタイルを見直すという時代へと 移行しつつあるのではないだろうか?
ならば・・・
もし、そうならば
もう一度 本当の意味での繁栄と、そして 幸せの定義を考え直してみるべきではないだろうか?
私たちは、身丈以上のものを あまりにも 求めすぎていた。
電気を使うなら、自分の家で太陽光と風力で賄える以上のものは もう 使わない。
そんな風に日本中が変われば、自然と 原子力発電所という恐ろしいものと 隣同士で生活しなければならない恐怖からも解放されるだろう。
工業製品に多くの電気が必要ならば、どうして 地熱や、海流を使おうとしないのか?
アメリカからの圧力に、沖縄の人たちのように笑顔で、立ち向かう勇気を本土の人間たちは見習うべきだろう。
アメリカが推進する原発事業、石油貿易、物量には、日本のものさしが世界に通用しなければならないわけだが・・・
しかし、それらは、きれいごとである。
ここからが、より深く我々の住んでいる社会・・・世界をもっとよく考えなければならない部分に入ってくる。
この文章は、はじめ、法律について書いている。
明治のとき、日本の持ってきた法律は、ドイツ製だった。
ドイツの法律をかなりの部分、輸入してきたのである。
それは、アングロサクソン、ジャーマン フレンチ・・・いずれにせよヨーロッパの考え方を、そのままに植えつけた。
したがって、どうしても、法律はヨーロッパのほうが一日の長がある。
日本にはアメリカの軍隊、コカコーラ そして、ついに、欧米の会計スタンダードを受け入れることになった。
これにより、今まで黒字だった企業会計が実は赤字であるということにもなり、ジャパンプレミアムというべく日本たたきが、1990年代半ばに散々行われてきたように、日本はやられた。
平成の黒船とかビッグ バンなどといわれたが、多くの人は(政治かも含めて)その会計システムの変化についての意味を理解していなかった。
私自身 会計士でもあるので、この点を少し一般の人よりも理解しているつもりだが・・・
これは、言うなれば、ソフトな戦争であったろうし、また日本はその戦争の当事者が自分たちであることも知らないままいつの間にか敗戦を迎えていたといった様子だった。
トランプのババ抜きをしていたら、みんなジョーカーのカードがどれなのかを知っていて ババを日本だけが持たされていたというような話だった。
ゲームははじめから 日本だけが負けるようになっていたのである。
考えてみれば当然である。
当時13カ国で話し合いが行われたが、白人でなかったのは、唯一 わが国日本人だけだったのだ。
当時の大蔵省の官僚たちは、おそらくここまで 欧米軍団が日本をつぶすということに血眼を上げているとは 想像さえしていなかったであろう。
なぜなら、多くの官僚たちは日本の国内でちやほやされて、東京大学を出た人たちであって、海外で差別を受けたことがない人たちばかりだからだ。
だから、彼らは外国人といえば、サンタクロースのように気前が良くて、ジョニーデップのように颯爽と現れて悪者を退治してくれて、あるいはスーパーマンのように強く、そして、オリビアニュートンジョンのように、きれいでやさしく そよ風のように、日本を愛に満ちた眼差しで見守ってくれていると 思っていたとしても 不思議は無い。
なぜなら、外国人をみるとき、ほとんどの場合は映画を通してであり、実際にひどい差別などを受けた経験がなかったからだ。
白人の差別は、特に異人種に対する差別は・・・それはそれは、きついものなのである。
これは、20年ほど白人社会でもまれてみなければ、ちょっと理解できない感覚だろう。
だから、確定的に断言できるのは、日本の官僚たちは、本当の意味において、差別を受けるということの なんたるかを机上の上でしか知らず 実体験としては、全く理解できていない。のである。
日本のとった手段。
アジアクラッシュの後、日本は、ますます消極的な方法で乗り切ろうとした。
乗り切れることはおおよそ不可能とも思われたが、9・11でアメリカの目が中東に向いていき その後、財政破綻が起こり、また、EUも多くの内包問題(ギリシャ、アイスランド、スペイン ポルトガル)によって、日本どころではなくなってしまった。
ある意味、日本のとっていた消極的な手法は 正しかったともいえる。
資産が減っていても戦争には行く必要のない日本がそこにはあったからだ。
しかし、中国の台頭によって、事態は思いがけない方向に向いている。
日本の科学技術力も、また3・11によって、国際的に下げる結果ともなってしまった。
日本は、会計システムの変更を余儀なくされ それは、2015年か2016年までIFRSの適用を 「ぶらかし」作戦で引き伸ばそうとしている。
しかし、アメリカは2014年に批准し、スイス・オーストラリアなどは2005年にすでに批准、韓国でさえ、今年中に批准するので、彼らは、海外からの融資を同じ経理処理を示すことによってより受けやすくなっている。
これは企業にとっては、致命的で、ある。
経団連はすでにオーストラリアに人を出し、どのくらいそのためにコストがかかるか、人的資源の確保などのために動いている。古い日本の会計士にはついてこれないからだ。
本当の意味でのビッグバンは、2015年以降に控えており、それまでにまだまだ日本の経済は低迷を続けることになる。
それでも
まら中国よりはマシだ。
なぜなら、彼らは その会計システムの国際化がどれほど投資家にとって重要な指標となりうるかと言うことを まだまだ過小評価しているからである。
国際水準というのは、言うまでも無く欧米スタンダードのことだ。
日本は、これを早く学びそして早く追いつかなければならないのだ。
私は、とても大きな危惧を抱いている。
だが、日本では一部の人間をのぞいて、ほとんどその怖さも知らないし、それが理解できるだけの知識さえない。