大阪水曜ほっと集談会一世です。
神経質による様々な心の葛藤やとらわれは本来病気ではないというのが森田療法の出発点ではないかと勝手に思っています。
そういう意味で治ったというのは適切な表現ではないのかもしれません。
ただ一般の方にもわかりやすくするために治ったという表現を使いたいと思います。
さて社交不安やパニック、抑うつなど心の問題から立ち直って神経質者の持つ生の欲望が遺憾なく発揮された時ほど、
私はその人の真価が問われると思っています。
症状で覆い隠されていた自我がむき出しになるからです。
症状から回復することは大切ですが立ち直ってからどう立ち振る舞うかはもっと大切だと思っています。
せっかく自覚を深める機会を得たのに元々優秀な神経質者ですから、
自己実現と称して行動・行動とまっしぐら、理知的に人を追い詰めたり、謙虚さを失うことがあります。
結果色々やっている割には何かしら不完全があり、
心が満たされない。
私にもそのような時期がありましたし、そういう人々も少なからず見てきました。
森田は横ではなく縦に掘り下げて学ぶものというのが私の実感です。
残念でなりません。
本末転倒ではないでしょうか?
どこか人生に余白を残しておいて欲しいのです。
余白とはその人にとって直接利害の伴わない活動です。
神経質者は野心家である、と言われた自助グループの先輩がおられます。
確かに転んでもただでは、起きないのが神経質者です。
それゆえに早急にことを進めようとして自分を見失ってしまうこともあるのです。
そんなときふと読んだ稲盛和夫氏の生前の言葉を集めた、
稲森和夫 魂の言葉 108にこう書かれていました。
※今日の心に響く言葉
どんな人間のどんな才能も天からの授かりもの、いや借り物でしかないと私は思っています。
2025.1.5 一世