浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

父母に大恩受けし我なるに
報いきれなき我が身悲しも

「心行の解説」より。

2013-12-16 00:24:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

              ~ 恩師の「心行の解説」より ~


     「六根の調和は常に中道を根本として己の正しい心に問うことなり」


私たちの肉体と心を調和するには、常に中道を根本とせよということで、
この中道とは、相手にも自分にも片寄らない善意なる第三者の目で見る見方をすることです。

一昨日、「先生はなぜそんな力が戴けるのですか」と質問を受けました。
その方は車のドアを閉めた時に、お譲ちゃんの手をはさんで、
その指の先がちぎれてしまったそうです。
これは痛いです。ぐちゃぐちゃになってしまった肉をくっつけたのですけど、
お医者さんはもう腐って駄目かも分からないとおっしゃったそうです。
そのお母さんが、お譲ちゃんとそのお兄さんの、お子さん二人といっしょに
私のテープをずっと聞いていますと指先がちぎれているのに全然痛くなくなったのです。
ここへ連れてきて、また光を戴いた後、お医者さんへ行きますと「あっ、先ができてきた」
と言われたそうです。

もう切ってしまわなくてはいけないとお医者さんが言われたのにちゃんと肉ができてきたのです。
それで早速お礼に行かなくてはいけないといってご夫婦とお子さんとで見えました。
お父さんが「なぜ先生はそういうことができるのですか、指がちぎれているのに痛くなくなり、
ここへ寄せてもらったらすぐ肉ができ上がってきたのはなぜですか、先生はいくつの時から
そんなことができましたか」と言って、いろいろ質問を受けたのです。
人は皆そのような力を神様から戴いているはずです。ところがその力の出し方を知らないでいます。
なぜ出し方が分からないかというと正しい法を知らなかったからです。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2013-12-15 03:16:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


              先日の続き・・・

              眼・耳・鼻・舌・身・意を六根といいます。
              この五官・六根がなぜ私たちに与えられているかといいますと、
              それは自己保存の道具としてです。
              早い話が口がなければご飯が食べられないから生存が成り立たなくなりますし、
              言葉が通じなかったら生きる上で具合が悪いです。
              自分を生かすために与えられた道具がこの五官です。
              そしてこの五官が「意識」を持っていて心の中へ連絡してくれるのですね。
              例えば前方から危ないものが来ましたらパッと避けたり、横から音を鳴らしたら
              飛びのいたりします。鼻は、良い匂いとか悪い臭いとかを嗅ぎ分ける道具ですが
              これも肉体を守るためのものです。

              この五官を通してものを見た場合は、すべて自分を中心とする見方となってしまって、
              それは全部間違っているということです。
              五官を通しますと自己保存と自我我欲という色眼鏡が全部にかけられてしまうのです。
              つまり五官を通しますと煩悩の悪魔が常に全体を覆ってしまうのであり、
              神が肉体という悪魔の装いをなさって人間として現れておられるということです。
              自己中心または利己的に見る思いこそ、悪魔の正体といえます。
              では、この悪魔から解放され、悪魔に囚われない方法は何かというと、まず自分という
              立場を離れて相手の立場に立って自分と相手の出来事を観察してみることです。

              次に相手の立場に立つだけでしたら、相手に片寄りますから、今度は善意なる第三者の
              立場でどちらにも付かないで、自分と相手の出来事を見るのです。
              或いは神様の立場に立って自分と相手を見ますと、自分を離れた見方をすることができます。
              自分の五官から離れるには相手の立場に立ち、そして次に天の立場に立って二人を見ます。
              するとどちらが無理を言っているか、どちらが正しいかという答えが出て来ます。
              私たちには五官が与えられており、この五官に囚われた小さい己、偽りの己が煩悩であり、
              煩悩とは、即ち悪魔です。


                            ~ 感謝・合掌 ~
















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「心行の解説」より。

2013-12-14 06:13:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


             「その原因は煩悩なり煩悩は眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり」


          自分自身、神との約束を忘れ去り、神様のご意志に背いてこの世を去っていくのですが、
          その原因として生老病死の苦しみとこの苦しみをつくる五官の煩悩があるのですね。
          五官の煩悩といいますのは、人間の持っている眼・耳・鼻・舌そして体です。
          神様は上手に造って下さって、
          私たちの魂の修行ができやすいようにこの五官を与えて下さっているのです。
          目について言えば、もし目がなかったとしたらこれは便利が悪いことこの上ありません。
          耳が聞こえなかったらこれも具合が悪いですね。
          この世には身体に障害を受けたお方もおられますが、ほんとうに不自由なことと思います。

          あのヘレンケラーさんは見えない、話せない、聞こえないという三重苦を乗り越えて人々の
          ために尽くされましたが、ああいうお方は光の天使です。
          「このような不自由な肉体をもっても、このようになれるのですよ」と、
          その肉体をもって教えて下さっているのです。
          しかしどんなにか不自由で大変なことだったかと思います。
          見えないだけで辛いし、聞こえないだけでも辛い、またものが言えないだけでも辛いものですのに、
          三つの苦しみを同時に持って生まれたお方もあるのですね。もっとも、ヘレンケラーの場合は
          途中で病気になって、目・耳・口が不自由になられたのですが、付いてくれた先生の愛によって、
          世界的に有名なすばらしい「心の先生」になられました。


                           ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-13 04:38:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


              先日の続き・・・

              これを心の草引き、心の雑草の引き抜きとも言います。 いくら綺麗に耕し、
              草一本ない畑を作っても、何カ月が放っておきますと、草ぼうぼうに生えています。
              これから春夏にかけては、畑を一カ月も二カ月も放置しますと草引きが大変です。
              根も大きくなり葉もはびこります。
              これを双葉の間に少しずつ摘んでおけば楽に除草できます。

              「心の雑草」とは怒りであり、妬みであり、愚痴であり、恨み憎しみのことで、
              それが常に心から芽生えてきます。「私はもう悟ったから、いっさいの雑草は出ない」
              という方はないのです。だから、あの偉大なるお釈迦様にしましても「常に雑引きをしなさい」
              とおしゃったのですね。雑草を引き、そして適当な水をやり、肥やしを与えて心を豊かにして
              いくことです。心の灌漑、施肥とは、こういうお話を聞き、話から得た知識を実践して智慧に
              変えることです。素晴らしい実を成長させることです。

              いくら綺麗に整地し、綺麗に耕し、そこへ良き種を播きましても、雑草をそのまま放っておきますと、
              たちまち種は雑草の勢いにやられてしまいます。心の中の雑草は常に芽生えようとしますから、
              日々に精進して抜き取ることが私たちの修行の一つです。生きる限りこの雑草を避けることは
              できないのですから、「私は悟った。そんな思いはいっさいない」というのは真っ赤な偽りです。
              そして次には、悟りの持続をすることに価値があります。


                             ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2013-12-12 01:03:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先日の続き・・・

お釈迦様は「たった三つの実践をしなさい」と言われました。
「常に謙虚であること、礼儀正しくあること、柔和であること」の
三つをいつも実践していましたら、どこへ行きましても人様から愛されるはずです。
たったこの三つでいいのですから、これなら誰にでも実践できます。
来月までにこの三つを是非実践して戴きまして、「私はしてきました」と言って手を上げて挙げて下さい。
難しいことは勉強してもなかなかできませんが、こんなやさしいことでしたら誰にでもできるはずです。
私はいつも阿呆みたいに笑っておりますから、「先生は腹の立つことはないのですか」とよく聞かれます。
「いやいや、私も肉体を戴いた普通の人間です。都合の悪い時には腹が立ってきます。
しかし一時も早く捨ててしまうように努力しているだけです」腹立つ心をいつまでも持っていないことです。
持っておれば苦しみの時間が長いのです。

最初は腹の立つのを止めるのに何日も必要でしたが、訓練しておりますとだんだん短い時間で止められる
ようになり、最初は三日かかったものが、一日ぐらいで「ああ、腹を立ててもしょうがない」と捨てる
ようになりました。それを積み重ねますと、一時間ぐらいで思い変えができるようになり、
もっと上手になりますと、一瞬の内に捨ててしまいます。そうすると苦しみが自分の心に入ってきません。
これもやはり練習で、何事も練習しないと上手にはなりません。肉体を戴いている限り都合が悪ければ
必ず嫌だと思うもので、これは避けられません。もちろん、お釈迦様もイエス様も都合の悪い時は
嫌な思いをなさったと思います。しかし早く捨てられたから悟りの持続ができたのです。
法の実践をすることによって、いかに早くその苦しみや嫌なものを心から捨て去ることができるかを
身につけていきます。


                ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2013-12-11 02:51:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先日の続き・・・

また、あの太陽の熱・光を戴き、その光の中にありながら悪を犯す人はいっぱいあります。
私たちもそうでした。しかし未だかって太陽から裁きを受けた方は一人もおりません。
「お前は悪いことをしたから罰を当ててやろう」とか、
「あなたは善いことをしたから熱と光をたくさん上げましょう」とかそんな差別はいっさいありません。
神様の慈愛もこのようなものです。私たちがどのような過を犯そうが悪いことをしようが、
ほんとうの神様はただ「目覚めなさい。気付きなさい。そして幸せになりなさい」という慈愛を垂れ給います。
人を裁くということは、神のご意志に背いているのですね。神のご意志に背くことは自然の法則に背くことです。
そして自然の法則に背いた時、神が私たちを罰せられるのではなくて、自分で自分を裁くのです。
これは自然の掟であり、そして神の御心です。

もし人が過を犯しても、それを私たちが裁く必要はありません。
それは過ちを犯した人と神様との関係です。神の御心に背いた行為をした場合は、
その方と神様との間において、その方自身が自らを裁くようになっております。
世の中には「わしほど偉い者はない」という増上慢の人があります。増上慢になりますと、
急な坂道を登るのと同じで、常に上がっていかないと止まったらコロコロと転げ落ちるように、
必ず下に落ちる宿命がついているのです。それを知らないから、少し自分に何かができるとか、
人よりちょっと勝れているとかいう場合、「わしは偉らいんや」と偉ぶるのですが、
それは肉体の悪魔の仕業によるのです。
増上慢の反対は謙虚ですから、謙虚は悪魔から自分を守る鎧ということができます。
謙虚であることによって増上慢という悪魔が入り込めなくなります。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-10 00:50:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                      ~ 恩師の「心行の解説」より ~


             先日の続き・・・

             太陽は自らの身を燃え上がらせ、自らの身を犠牲にして、
             その結果として現れる熱と光、この熱と光こそ神の慈悲と愛であり、
             これを他に与え給います。
             太陽は正に神の御姿であり、私達がいかに生きるべきかを教えて下さっております。
             私たちは自分を犠牲にして、その行動を通して人々に喜びを与えることです。
             まず家庭の中においてイエス様の「汝の隣人を愛せよ」を、実践することですね。
             自分の時間を犠牲にして、自らの命を燃焼させ、自分のエネルギーを燃え上がらせて、
             その行動によって隣人に愛を注ぐことです。
             その時、どこにいきましても、自分の隣人から愛されます。

             太陽の熱、光は、現象界での社会的地位の高い方も低い方も、
             お金持ちの方も貧しい方も、病気の方も健康な方も、すべて平等に与えて戴いています。
             神の慈愛とはこのようなものですから、私たちも人を差別することがあれば、
             もう神の心に背いたことになります。
             どなた、こなたに関係なく平等の思いを持って他を差別することなく接し、
             すべての方を愛すべきです。


                           ~ 感謝・合掌 ~









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「心行の解説」より。

2013-12-09 03:15:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


             先日の続き・・・

             マクドナルド・ベインさんというお方に、イエス様がお入りになりまして、
             お話されたものを書きとめたご著書があります。
             その原著を沖縄の仲里誠吉先生が翻訳された「心身の神癒」という本が出版されております。
             この本を読ませて戴きますと、
             ほんとうに神と人間との関係について分かりやすく書いて戴いておりますね。
             「神は大生命なり、神はこの大宇宙の中に隈なく遍在される巨大にして偉大なるエネルギーであり、
             力であり、すべてを調和させて下さる愛そのものである」とありますようにすべてを生かし
             育てあげようとして下さる永遠にして変わることのない巨大な愛がほんとうの神様です。
             そして私達は神様の中に包まれて日々を生きさせてもらっています。

             私達の心の奥底にも、ほんとうの神様の御魂が一人一人に注がれているのを知ることによって、
             完全無欠なる神が私たちの中に在られるという理解が深まれば、現実の病気は消えていくはずです。
             こういうことを「心身の神癒」という本の中に書いて戴いております。
             ですから私達は「内なる神、神なる我」を理解させて戴き、その理解度が深まれば深まるほど
             病気が治るようになっていることを知らねばなりません。


                             ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2013-12-08 02:11:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                    ~ 恩師の「心行の解説」より ~


              己の意識(霊)が肉体という衣を着て、自分の持っている悪い癖、
              欠点を修正するためにこの地上に生まれ出ております。
              人はなくて七癖、あって四十八癖ともいうほど沢山の癖を持っていて、
              その癖を修正することがこの世に生まれ出た大きな目的の一つですね。
              次にどれだけ悪を犯さないか、過ちを少なくしていくか、
              またどれだけ善き行いを積み重ねるか、愛の実践ができたかということが
              この世に生まれた目的と使命です。

              「人々と手を取り合ってそして調和を目的として」をもっとかみ砕いて説明しますと、
              「正法」とはどれだけ自分の癖、欠点を正せるか、どれだけ過ちを少なく生きるか、
              どれだけ善い行いを積めるかということに尽きると思います。
              また「正法」の学びの中で大事なことは、ほんとうの神様を知るということです。
              神様はいっぱい在られまして、ほんとうの神でない神があまりにも多いですから、
              私は「まことの神」「ほんとうの神様」と呼ばせてもらっています。
              キリスト教的には「父なる神」「天に坐します我らの父」、或いは、
              「私たちを造り給うた父なる神」といっているこの神こそまことの神様ですね。

              示す偏に申すと書くまことの神は宇宙の中でただおひと方であり、
              それは自らの姿をこの大自然の中に現わし、私たちに「このように生きなさい、
              このように生きてはならない」と示し申されるのがほんとうの神様です。
              真の神は「形あって形なし、形あっては天地自然に現わせし姿これなり、
              形なくては汝らを生かさん力これなり」というお方です。
              すべてのものを生かそうとして下さる大生命こそほんとうの神です。
              そのお姿を見たければ私たち一人一人が神の御子であり、
              神のいとし子であると知ることです。
              つまり神様がご自身を示し現わすために人間を造られたのですから、
              人の悪口を言ったとしたら、これは神様の悪口を言ったことと同じです。
              どなたに対しても、もし謗ることがあれば、神を謗ったことであり、
              人を殴ってしまったら、神様を殴ったことになります。
              このほんとうの神を知ってこそ私達は日々の生活に安らぎを戴けます。


                          ~ 感謝・合掌 ~









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「心行の解説」より。

2013-12-07 06:29:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                              ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                    先日の続き・・・

                    先々月の「道」の中に
                           満開や春の嵐に散る桜 我も散りたし朽ち果てぬ間に
                    この歌を載せていただいて、お叱りを受けました。
                    「先生は死ぬというようなことを言ったらあきませんよ」と叱られてしまったのですが、
                    まあ今朝も朝食も戴かずに飛んで出まして、先程やっと家に着きお茶漬けを少し戴き、
                    満腹になるとしゃべるのがしんどいですから、食事を控えてここへかけつけました。
                    帰って来る時、近鉄線に乗って私の肉体のふるさとである国分を通過しました。
                    特急ですから国分駅には止まってくれません。「ああ、お母さんが国分にいてくれるのに、
                    ちょっと挨拶ぐらいできたらなあ」と思いならが実家の側を通りました。
                    自分の時間があれば自分の母親の顔も見に行きたいですし、また私の顔を見て戴いたら
                    喜んでも戴けます。
                    しかしそれさえ許されない今の自分に与えられた環境を思いました時、
                    ああ辛いことだなあと思います。

                    またしんどい目をしてフラフラになりながら、体の悪い方の癒しをさせてもらい、
                    その数があまりにも多くなってきますとエネルギーがなくなりまして、
                    お尻を持ち上げることもできないから、今度は私が皆さんの周りを這いずり回って
                    治さなくてはいけないことになります。
                    エネルギーの限界、命の限界まで挑戦しまして、
                    「もうこんなにしんどいことがずっと続くのだったら、朽ち果ててしまわない間に、
                    いい加減に卒業できるといいのになあ」と思うのです。
                    今はお陰様でこうして元気に飛び回っておりますが、やがて腰が曲がり杖をついて
                    歩くようになった姿を皆様に見て戴くのでしたら、今、花と惜しまれる間に散りたいと
                    思うのも人情かと思います。


                                    ~ 感謝・合掌 ~










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「心行の解説」より。

2013-12-06 03:13:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                 先日の続き・・・


                     「父母に仮に呼ばれて客に来てまた立ち帰るもとのふるさと」


                 もとのふるさとへ帰るとは、この世を卒業した時のことです。
                 このことを普段から心の中へよく入れておくことです。
                 そうしますと死というものは別に怖い問題ではなく、
                 この世は魂の修行をするためにお父さんお母さんの縁を戴いて
                 お客様に呼んで戴いているだけで、
                 帰るべき時が来たらほんとうの自分のふるさとに帰るのだということが分かると、
                 死を怖いとは思わなくなります。

                 私は二十代に、この言葉に巡り合いまして、死の恐怖から逃れました。
                 ですから死というものには、いっさい恐怖はなく、
                 いつお迎えを戴いても喜んで帰らせて戴く用意があります。
                 というのは、
                 今日までの間に私がさせて戴いたことをあの世に帰りまして
                 「これだけのことをさせて戴きました」
                 と言って報告できるお土産を作っております。

                 ふるさとへ帰る時に、日頃、
                 私達が神様の愛をこの肉体を通してどれだけ日々の生活の中で現わせたか、
                 ほんとうの神様の御心をどれだけの方にお伝えできたか、
                 これが大きなお土産になるのではないかと思います。
                 善き行いを積み、
                 人々の心にどれだけ安らぎを与えてきたかがあの世に帰る時のお土産になります。
                 幸い私は少しお土産を作りましたので、もういつ死んでも満足でございます。


                                ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2013-12-05 06:08:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                 「また生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり」


                  私達は肉体を戴きますと、生老病死の苦しみを受け、
                  自分自身の本性を忘れ去ってしまいます。
                  日々の生活を生き抜いていくことも大変です。年をとることも大変です。
                  姿が醜くなることを避けることはできませんし、病気にならないという保証は
                  誰一人戴いておりませんから何時病気にかかるかもしれません。というのは、
                  人間の肉体は四百四病の病の袋であるといわれていて、
                  その病が縁に触れていつ吹き出すかも分からないのです。

                  どれほど善いことをしようが、悪いことをしようが、大空の彼方に逃れても、
                  水の底に逃れても、山の奥の洞窟に逃れたとしても、
                  死から逃れるところはなく、死は必ず訪れます。
                  この世に生を戴きますと、必ず乗り越えなければならないのは死という現実です。
                  しかし、どうしてもそれに対する恐怖が伴うのですね。
                  ですから「死ぬのは怖い」とみなさんがおしゃいます。
                  この誰も避けるこことのできない死を、いかに迎えるかということですね。
                  それは常に自分の心を軽くすることです。
                  この現実世界は私たちの魂を修行させて戴くところの仮の宿であるということを
                  常に自覚することです。


                                ~ 感謝・合掌 ~







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「心行の解説」より。

2013-12-04 04:49:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                   ~ 恩師の「心行の解説」より ~


          「己が前世の約束を忘れ自己保存・自我我欲に明け暮れて

                己の心の魔に支配され神意に反しこの現象界を過ぎ行かん」


           私達は生まれる前に自分が約束させて戴いたことを何故忘れるかというと、
           肉体によって意識・心が支配されるからです。
           そのために自分が前世において結んだ約束を完全に忘れていきます。
           忘れる原因は自己保存・自我我欲に翻弄されてしまうからです。
           その時、神のご意志に完全に背いております。
           自己保存・自我我欲というのは外なる世界に与えられたものであり、
           この肉体に与えられたものです。そして内なる神そのものの意識です。 

           私達はこのように完全なる愛の中に生きさせてもらいながら、
           自分の肉体に意識・心が支配され、自分の前世の約束さえ忘れ去って、
           自己保存・自我我欲に明け暮れています。
           己の心の魔に支配されて神のご意志に背き、この現象界を過ごしています。
           この姿は法に縁のなかった方たちのこの世の最後の姿です。
           しかし、私達は今、法に縁を戴きましたから、あの世に帰る時は神との
           約束を果たして帰りたいと思います。


                       ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-03 04:18:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                    ~ 恩師の「心行の解説」より ~


              「しかるに諸々の衆生は己の肉体に意識・心が支配され」


            これほど完璧に守護・指導霊から愛をもって守られ導かれておりますのに、
            己の肉体に意識・心が支配されています。
            見えない世界では神の意識をそのまま戴いているのに、肉体というものに
            自分の意識・心が完全に支配されて、肉体の持っている意識、つまり五官から
            受ける感じが私たちの内に坐(ま)す神なる意識を遮ってしまうのです。
            神様が自分を表現するために人間の肉体をお造りになり、しかも神ご自身が
            一人一人の中に坐しましながら、
            肉体の五官という悪魔(サタン)に化粧をなさっているのです。

            五官とは悪魔の化粧であり装いであって、五官に振り回されますと、
            必ずサタンの餌食になっていきます。
            五官に捉われるとなぜ悪魔の餌食になるかというと、五官には自己保存と
            自我我欲というものが与えられているからです。
            この自己保存と自我我欲こそ、キリスト教でいうところの「原罪」であり、
            人間が生まれつきに持っているエゴです。


                       ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2013-12-02 02:10:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                ~ 恩師の「心行の解説より ~


        先日の続き・・・

        「アホー」と言えば必ず「アホー」と返ってきますし、
        「ヤッホー」と叫べば「ヤッホー」と返ってきます。
        山彦の場合は、音波が向こうの山に当たって返ってくるだけですが、
        これは私達の想い、行いの場合も同じで、私たちの想い、行いからは
        波動が出ていますから、神の子として恥ずかしくない愛の実践をしますと、
        この場合は精妙なる波動が出ますし、人を騙したり、貪欲に捉らわれたり、
        怒ったり、恨んだり、憎しんだりしますと、必ず荒い波動が出てきて、
        それは見えない次元の違った世界に突き当たって自らにそのまま返って
        くるようになっているのです。原因結果の法則ですね。

        これは何者をも絶対に逃れることはできません。
        そういう中で私たちは修行をしているのです。自分の想い・行い・言葉が
        間違ったことをしたら、間違いの分だけ自分に返ってくるということを知った時、
        日々の行・想・言がどれほど大事であるかということが分かってきますね。
        この原因結果の法則さえ分からないで道を説いている方々もあります。
        人の悪口を言えば必ずそのまま自分に返ってくるのです。これは恐ろしいです。
        私達はできるだけ法則の中に生きたいと思います。


                   ~ 感謝・合掌 ~





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