浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

父神と我れとの間に分離なし
切るに切られぬ我れ子なるが故

「講演集」より。

2015-05-02 00:25:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三

(以下のお話は、同じ日に清水市の別会場行われた
                講演の中から抜粋したものです。)


           「法」に生きる日々


私は今褒めていただいたような、そんな立派な者では決してございません。
本来なら、私がお話を聞かせてもらう立場になるのですけど、まあ、
これもご縁でございますので、どうぞ辛抱して下さい。
そんな私が、こうして清水にご縁を頂きまして、また東京へも今度は是非
毎月来いというご指名を頂いたのですけど、関西では、
「そんなに取ってもったら困ります。先生の体を大事にしてもらわなくてはいけません」と、
グループの方がおこって下さいます。

世の中に私ほど幸せな人間がいったい何人おられるだろうか、
私のような喜びを頂く方がどれほどおいでになるだろうかと思わせてもらった時に、
日本も広い、世界も広いですけれど、恐らくそうたくさんはいないと思います。
その喜びとは、私の心の中に、多くの皆さんから、お話もできません。
これも皆様の愛のお陰です。
ほんとうに心からお礼申し上げます。
今お話いただきましたY先生は、ものすごく鋭い観察眼を持っておられます。
そして、あらゆる教祖様のことを全部調べておられるのですね。

「これは、ここがけない、これは、ここが間違っている」と、ちゃんとみなお見通しです。
東京にもたくさんの教祖達がいます。
私は幸い教祖にならなくて幸せです。
そっと隠れて、自分のこの下座に在って、できるだけ上にあがらないで、
せめて自分のこの一隅を照らせたら、自分のこの一隅さえ照らさせてもらったらと、
ただそれだけを思っています。

それと、私の大きな夢、大きな希望は、高橋信次先生の説いて下さいました教えを、
「私の命ある限り絶やしてはならない、狂わしてはならない、少しでも
枉げないでこれを守っていきたい、そして守らせてもらわなくてはいけない」
と、心の中に強く決めさせてもらっていることです。
私の家でのお話会ですが、どなた様にも、招待状も案内状も、また電話一本も、
したことはありません。

しかし、だんだんと人数が日に日に多くなってまいりました。
もともと、私たちには組織はありませんから、私自身組織を大きくしようとか、
或いは会員さんを増やそうとかいう思いは、これっぽちもありません。
ただ下座にありたい、そしてこの教えを狂わせないように守っていきたい、
その一念だけでございます。
そして、どこへ行かせていただきましても、私の旅費の面倒をみて下さい、
講演料を下さい、或いは会費を下さい、また会員になって下さいと望む心は、
私の想念、行為の中に何一つありません。
一切望みません。


              ~ 感謝・合掌 ~




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「講演集」より。

2015-05-01 00:10:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


       神のみ使いであることに目覚めよう


先の続き・・・

つらつら自分を見つめますと、この世の人間として、
まあ、私ほど可哀そうな人間はないと思います。
何一つ自分のことをする時間がありません。
お習字も、お陰様で教育部師範と言う免状は頂いたのですけどね。
もうあと専門部準師範と、専門部師範があるのです。
それにどうしても挑戦しなくてはいけないということですけど、
この頃、筆を持つ時間が全然ないようになりました。
せめてもう一つ免状をと思います。

もともとお習字は好きだったのですが、しかし、生きるのに精一杯で、
そういう習い事もできなかったのです。
ちょうど五十歳の時から習い始めました。
そして、五年で教育の師範免状を頂きました。
時間がありさえすれば、もっと筆を持っていたいのです。
自分の書く文字は自分の癖をもって書いているので、
習字というのは、その癖を正すために習うのですから、
正法とものすごく似ているのです。

自分の持っている悪い癖や欠点を正しく変えて、
基本に戻すその訓練ですね。
習字の線の一本一本を正しい基本に従って直していく、
腕で引いても一ですし、また指先を動かしても一です。
縦に引いても横に引いても、その専門のことになりますと、
もうほんとうに正法そのままです。
だから、習字の中でいろいろと学ばせていただきましたけれど、
それさえできなくなってきまして、三次元的見方をしますと、
私はこの世的には可哀そうな人間ですね。

しかし四次元的見方から見ますと、
あの世的に私ほど幸せな人間はありません。
世のすべての方の愛を、私が一身に頂いて、
そして神の愛も頂けます。
それは、自分を捨て、自分の一切を捨てて、
人の為に生きさせてもらった時に、
人々の愛を頂くのです。

神様は、「あなたは私にとって必要である。
私の思いは、すべての人がいとおしい。すべての人は、
私の分け身、いとし子である。
私は不幸な人を幸せにしたい。
しかし、愛ゆえにその身を滅した存在である。
だから、私自身は人を救うことができない。
肉体を持ったあなたを通して私は働こう。

よくやってくれました。よく頑張ってくれました」と言って、
喜んで下さいます。
だから、神の御子の使命に目覚めることですね。
神様の目から見ますと全部平等で、全部がいとし子です。
そのお一人お一人が、
全部神のみ使いとしての使命を果たすことができるのです。
特定の人間だけができるのとは違うのですね。
全部がそうです。
目覚めたらいいのです。

自分が目覚め、そして目覚めたならば、
それを行いに移していけば、全部が神のみ使いです。
私は「いといと、いと小さき神のみ使い」です。
だから、私に縁ある方は幸いです。
「縁なき衆生は度し難し」とは、お釈迦様がおっしゃった言葉です。

いといと、そのいと小さき神のみ使いに目覚めたならば、
偉大なる神の御業が現れます。
「私は偉大なる光の天使である」と言ったら、
「ああ、あいつは頭が狂っている」と言われますね。
だから、いと小さき、いといと、いと小さき神のみ使いとして、
お互いに生きていきたいと思いますね。
どうぞ、自分が神のみ使いであるということに目覚めて下さい。
必ず幸せは約束されます。
幸せは与えられます。
このご縁で頑張っていきたいと思います。
ありがとうございました。


             ~ 感謝・合掌 ~



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする