浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

我れ食べず人に施す母の愛
幼き我に布施教えらる

「御垂訓」

2020-04-14 00:13:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はイエス様が処刑される最後の夜を過ごした場所に建てられた万国民教会です。
とても大きな教会ですので、教会の上の部分しかカメラに収めることが出来ませんでした。
恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの友の方達と「イエス様の御足を慕って」の
旅で訪問(96年)したオリーブ山ゲッセマネに建立されている教会です。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

               講演集 一

      「自分を殺す者への許しを乞うキリスト」


「ただ、させていただく」自分を犠牲にしてさせていただくことです。
「究極の愛」というのは自分を犠牲にし、
自らを滅して相手を生かすことです。
イエスはゴルゴダの丘で十字架に上げられました。
イエスの話をしますが、私はキリスト教ではありません。
磔にあって大きい釘を手と足に打たれてあの十字架に上げられ、
しかも下から槍で突き殺されるのです。残酷な死刑ですね。

生きているのに釘を打ち込んで突き殺そうとした時、
イエスはこのように祈られました・・・
神よ、どうぞこの者達を罰しないで下さい。この者達は、
ものの正しい意味を知らないで、今この過ちを犯しています。
この者達の罪を許して下さい。この者達を罰しないで下さい」。
こう言って息を引きとられたそうです。

自分を殺している者の罪を許し、罰を与えないで下さいと言うのです。
これこそ究極の愛です。
ですから二千年経っても尚イエスを慕う地球上の何分の一かの方々が
キリスト教を信仰しておられます。
あの人が私をいじめる、などと言うのは、
凡そ関係がない些細なことです。
いじめられようが殺されようが尽くすことです。
この時、苦しみはなくなっていきます。


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「御垂訓」

2020-04-13 00:35:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がイギリス・ロンドンで癒しをされている会場での
スナップ写真ですが、十一年間車椅子生活をされていた方が恩師の癒しによって
普通に歩けるようになられ翌日癒しの会場に自転車に乗ってこられ皆さんにその喜びの
感謝と感想を述べられているところです。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一


先の続き・・・

亡くなられた時には、
生きておられた時よりも真にきれいなお顔になっておられ、
何とも表現しようのない程きれいで安らかなお顔だったそうです。
死後の硬直は全くおきず、
身体がふわふわと柔らかくて冷たくならないので、
出棺の時、皆が火葬場に連れて行くのは惜しい、
勿体ないと思う程だったそうです。
私にはこういう心の友は多いですから、
その亡くなられた方をお送りしなければならない場合が多いのですが、
縁あるお方は皆さん、亡くなられた時、
何とも言えないきれいなお顔になられます。

ちょうど観世音菩薩の掛軸のお顔のような、或いは阿弥陀様のような、
ああいうお顔になられます。
硬直は一切おきず、そして亡くなられた後がとても明るいのです。
普通は死後硬直がおきて恐ろしい顔になっていると、辺りがすごく
陰気くさいです。成仏されきれいなお顔でこの世を去られますと、
その後は大変明るくて陰気くささは一切ありません。
その奥さんから、
「きれいなお顔のおばあちゃんを送させてもらいました」と言って、
亡くなられたその場ですぐに電話がありました。
しかも、「お陰様で至らないけれど、
自分にできるだけのことはさせていただいて、
私も幸せでした」と、この間訪ねて来て喜んでおられましたね。


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「御垂訓」

2020-04-12 00:08:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

                 講演集 一

        「姑にできる限りを尽くした例話」


先の続き・・・

喜ぶ喜ばないは関係ないので、自分にできるだけ尽くしてみなさい。
やがておばあちゃんがこの世を去られました時に、あなたはあんな
難しいおばあちゃんに、よくこれだけのことがさせてもらえたと、
御自身の心に満足感、喜びが与えられます。
それはおばあちゃんの為にするのと違います。
自分自身の為にするのです」と話しておりましたら、
お陰で自分の心が楽になって、
おばあちゃんが喜ぶ喜ばないは気にならなくなりました。

これだけのことをさせてもらおう、尽くさせてもらおうということで、
いよいよ亡くなられる前に私の話をテープ起こししたものを読んであげたり、
お話のテープを聞かせてあげたりしたそうです。
家の側におばあちゃんの実の娘さんもおられるそうですが、
娘さんがおばあちゃんの介抱に来られても、終わり頃にはもう受け付けない。
というのもお嫁さんが尽くしておられる程には、
実の親子でも尽くしておられないから、拒否反応を起こすのですね。
すっかりお嫁さんに頼って自分の娘よりも頼りにされたのです。


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「御垂訓」

2020-04-11 00:31:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

                 講演集 一

        「姑にできる限りを尽くした例話」


この間、大阪の資産家で財産が何兆円というお宅の若い奥さんと
ご縁がありました。
ここのおばあちゃんが先日亡くなられたのですが、
半身不随となって以来九年間寝たきりだったそうです。
この若い奥さんが九年間お世話をされたのですね。
いい加減くたびれます。しかもこのおばあちゃんは喜びが少なく、
一言も感謝の言葉を言われない。
それで「私は何の為におばあちゃんの世話をしなければいけないのか、
とてもつらいです」と言って、相談に来ておられたのです。

「おばあちゃんが喜んでくれてもくれなくても、或いは謗っても、
あなたは精一杯尽くしなさい。


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「御垂訓」

2020-04-10 00:27:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の幽体離脱(肉体離脱)を
学びの友の方がカメラに収めたものです。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

            講演集 一


     「与えるが故に与えられる法則」


出せば入る法則というのがあり、この法則に従って
「私は与えるが故に与えられる」という言葉がありますね。
愛するから愛されるのです。
自分が愛さないのに一体誰が愛してくれますか。
自分が与えないのに誰が与えてくれますか。
もし不幸になりたかったら、
人を不幸にしてやったらいいのです。
すると必ず不幸にしてくれます。
相手から憎んでほしかったら相手を憎んだらいいのですね。
必ず憎んでくれます。これは法則です。
しかも避けることはできません自分が幸せになりたかったら、
まず身の回りの人を幸せにすることです。


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「御垂訓」

2020-04-08 23:59:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は大悟される前のお釈迦様に乳粥を差し上げている
チュダリヤ・チュダータ少女の木彫りの土産品を恩師「長尾弘」先生が
インド喜びの旅で買い求めたものをカメラに収めたものです。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

              講演集 一

       「自分に都合の良い人は好き」


では、好きになるにはどうしたらいいかと言いますと、
これは簡単な理論で割り切れるのです。
人間の心というのは、
地球上の全人類が共通して持っている思いがあるのです。
それは「自分にとって都合の良い方は全部好きで、
自分にとって都合の悪い方は皆嫌い」という思いです。
思いです。

皆さんの中で自分にとって都合の悪い人が好きだという方が
ありますか。
そんな人はありませんね。
都合の悪い人は嫌いという自分の心の行動からしていけば、
自分が相手にとって都合の良い人間になればいいのです。
出会う人すべてにとって都合の良い自分になっていくのです。
その時必ず、相手の方から好きになってもらえます。
これはまず自分から先にせねばなりません。
夫婦の間で、親子の仲で、兄弟の仲で、
都合の良い自分になることです。



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「御垂訓」

2020-04-08 00:12:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

このお写真も先に投稿したものと同じ場所で撮影された
ものと思われます。

お写真は恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの
友の方たちとイエス様に関係する史跡を訪ねてイタリアと
フランスを訪問した際のビデオの中に撮影されていた
映像です。(ビデオの撮影者は学びの友のお方です。)

フランスのノートルダム寺院内に安置されている
ピエタ像の後ろに立つ十字架だと思われます。

炎のような光はこの十字架の前ですから本来は
ピエタ像が映らなければらないはずですが
炎のようなものが映っています。

先に投稿したお写真と似ていますが、炎の形状が
まったく違っています。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

     「人生は出会いによって展開する」


世の中に生きていますと、人生は出会いによって展開してます。
オギャーと生まれますと、まず両親と出会います。
そして親は子と出会います。成長する過程においては、
友達と出会い、結婚する相手の方と出会い、
また子供を授かればその子供と出会います。

その出会いによって人は苦しみ喜びいろんな体験をします。
その出会う出来事によって私達は自分を不幸にし、
また幸せにしています。
喜びよりも苦しみのほうが多いのがこの世の定めです。
出会う人は都合の悪い人も嫌な人も出会うようになっているのですから、
その人達を全部好きになるように努力したらいいのですね。


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「御垂訓」

2020-04-07 00:03:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

       「自分を知ると相手が分かる」


自分で自分を知っているという方は案外少ないです。
自分とはどういう人間かということがよく分からないでいます。

自分とは一体どれほどの悪を犯した人間か、
どれほどの良いことを積み重ねたか、
自分の悪さえ気付かないというのが殆どですね。
自分の過ちに気付かないのです。

自分というものを一つ知った時に人の心を一つ知ることができます。
自分を二つ知った時に人を二つ知ることができます。
だから自分を十知った時にすべての人の十を知ることができます。
心とはそんなふうにつくられているようですね。


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「御垂訓」

2020-04-06 00:05:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中のものを
カメラに収めたものですが、現像した一番始めは
光だけで恩師を確認することはできなかったそうです。
光をだんだん絞っていってやっと恩師の頭と肩の
部分がかすかに視認できるようになったそうです。
(この写真を撮られた方のお話です)
不思議写真の一枚です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

              講演集 一

       「自分に都合の良い人は好き」


そして善を行うと心が軽くなります。
日々の生活で一度自分の過去を振り返ってもらって、
自分にどれだけ砂が詰まっているかを今ちょっと
振り返ってもらっただけでも、自分が死んで行く世界は、
ちゃんと分かります。
「自分は大分重い深い所へ行くなあ」とか、
「自分は高い所へ行くなあ」とか、
しかしこの場にいる人で「死んで私は一番高い所に行けるなあ」
という方は一人もありませんね。
私は便利がいいです。

こうしてお話をさせてもらうと、
ああこの方は地獄の一丁目へ行かれるなあ、
この方はどの辺りだなあということが皆見えます。
見えるようになっているのです。
お顔には皆証明書を書いておられます。
顔は心の看板です。
肉体とは魂の表現体、しかも目の玉は心の窓です。
こうして見ますと、心の奥底が皆見えます。
霊能力とか奇奇怪怪の能力とかいうのとは全く違うのですね。
五感を通してそれが分かるのです。


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「御垂訓」

2020-04-05 00:11:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はお釈迦様のみ教えに帰依されたアショカ王が寄贈された
アショ王柱の前で笑顔でカメラに収まっている恩師「長尾弘」先生です。
お釈迦様のご生誕地ネパール領ルンビニにて。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

            「作善止悪}


日々の生活を正しく行じるとは、最も簡単に言いますと、
過ちをできるだけ犯さないように、
自分の良心に恥じることをしないことですね。
そして良き行いを少しでも多く積み重ねること、
たったそれだけでいいのです。
それで極楽へ行けるのです。悪しき行いをとどめ、
良き行いを積み重ねる「作善止悪」―――簡単なことです。
「三世の諸仏はすべてこれを説き給う」過去の仏も現世の仏も
来世の仏もすべてこの法を説かれるそうです。
悪をとどめるというのは先程言いました沙袋の中に砂を詰めない
ことですね。



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「御垂訓」

2020-04-04 01:27:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先に投稿したアラビア字句で書かれていたバスの車窓から
学びの友の方がカメラに収めたものでしたが、今回のものは小生のカメラに写っていた
同じアラビア字句です。
恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの友の方達と「モーセの御足を慕っての旅」の
途中で撮影したお写真であることは確かなのですが、いつ、どこで撮ったのかまったく
記憶にありません。
双方の字句をよく見比べて見ますと、同じアラビア文字で,同じ意味のことが
書かれていることがお分かりになるかと思います。(意味=何かが現れる)
小生は勿論アラビア語は分かりませんが、まったく同じ字句であることが分かります。
キリスト教ではイエス様の再臨を大切な伝道の一つとして説かれていますよね。
このことに関係することかな~(?)と思ったりもしていますが・・・
さぁ~ど~でしょうか。
不思議(奇跡)写真の一枚です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

          「内在された知恵」


今日のようなお話会も、
ほんとうにあちこち招いていただきますが、
今日はこの場所でこういう話をさせてもらおうとかは
一切私は思って来ません。
全く何も考えないで来ます。
そして長い時は、朝八時からお昼までと、会場は変わりますが、
午後一時から夕方五時までと、
そのあと夜七時から十一時までというように、
日に三回お話をさせてもらいます。

この会場から次の会場へ行かせてもらう道中は、
皆さんと楽しい話をしながら行きます。
何も話すことについては考えません。
皆さんの心の段階に応じた話しが自然と出て来ます。
これは内在された知恵ですね。
そういうことが自然と分かってくるのです。



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「御垂訓」

2020-04-03 00:00:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写はお釈迦様のご生誕地ルンビニに建立されていた初代の摩耶堂に
安置されていた「赤ちゃんお釈迦様」の天上天下像です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

              講演集 一


先の続き・・・

「般若心経」も有難いと言いますけど、
あのお経の意味をちょっと説明させてもらったのです。
「摩訶般若波羅蜜多心経」は「マーハ パニャーパラミターストラ」と言い、
その意味は「心の奥底に内在されている偉大な智慧に到達する心の教え」と
いうことです。
摩訶はマーハ、偉大、般若とはパニャ、智慧です。
波羅蜜多は「腹を見た」のではなく、パラミター、到達するという意味、
心経は心の教えです。

「観自在菩薩」とは過去・現在・未来を見通す能力を持たれた仏を目ざして
修行されるお方のこと、そのお方が正しい生活を日々深く行じられた時
「行深般若波羅蜜多」なのです。
「照見五蘊皆空度」の照見とは照らして見ること、
ブッダは人間を観察し、人間を五つの部分に分けられました。
色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)識(判断・理性)。
色は人間の肉体つまり物質的要素で、受想行識は精神的要素、心の作用で
この五つを五蘊といいます。

その五蘊はみな、空なり、つまり実体がない、と説かれています。
その話をちょっとしますと、院主様は突然ハッと正座されまして
「先生は一体何年修行されたのですか」今迄とはうって変って急に先生と
言われたのです。
「いえいえ、私は何も修業はしておりません」と言いますと、
「恥ずかしいことだが、私は坊主をして八十年になるけれど、
先生が今説いて下さったことを知らなかった」とおっしゃるのです。
寺門のプロのお坊様がそれを知らないで素人の私が知るということは、
これは不思議ですね。
日々の生活を正しく行じますと、
こういうことは習わなくても勝手に分かってくるのです。


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「御垂訓」

2020-04-02 00:51:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中を学びの友の方がカメラに
収めたものですが、ご覧のように幽体(肉体)離脱から戻られたような画像に
なっています。
舞台上の恩師、お花、演台、等は同じような動きをしておりますが、舞台の前で
恩師のご法話を聴かれている皆様は同じお写真の被写体でありながら少しも動いていません。
ですから、カメラのブレではないと言えるかと思います。
不思議(奇跡)写真の一枚です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

           講演集 一

       「経文の意味が分かってこそ有難い」


私の家の檀那寺の院主様が私の父の法事に来て下さいまして、
たまたま一緒にお食事をいただきました。
その院主様は大変偉い方で本山の官長をされ、八十歳を過ぎた方です。
私達の幼い頃は道で会いますと気をつけをして最敬礼しました。
すると、おお偉いのうと頭をさすって下さったものです。
緋の衣を着て大変位の高い院主様です。

その院主様に「今、あげて下さったお経は何というのですか」と尋ねますと、
「あれは三部経というのだ」「三部経というのは有難いお経ですか」
「ああ有難いぞ」かねて私は三部経というのは有難いと聞いていましたので、
「先程から三部経を聞いていて、どこか一つでもいい、有難い所はないかと
一生懸命拝聴しておりました。
しかしどこ一つ有難い所はありません」と言ったのです。
すると「それはそうや、お経というものはな、分かるように言ったら一つも
有難いことはない、
分からんように読んで有難いように唱えるのが坊主の腕や」と言われます。

「では院主様のご存じない他国の言葉でXX寺の院主はアホ、XX寺の院主は
ドアホウと有難そうに唱えたら、有難いですか」と言いましたら、
「こら!! そんなこと言うたら許さん」と叱られたのです。
それと同じことでして、
言葉の意味が分からなければ何を言っているのか分かりませんから、
いくら有難そうに唱えて下さっても一向に有難いことはありません。
ただ、有難そうだなあと思うだけです。


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