生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼(162) 経営の真髄(つづき) 

2020年02月07日 07時54分28秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(162)  TITLE: 経営の真髄(つづき)      

『経営の神髄(下)』



このシリーズは企業の進化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。         
『』内は,著書からの引用部分です。                       
                                                        
書籍名;『経営の真髄(下)』 [2012] 
著者;P.F.ドラッカー
発行所;ダイヤモンド社 発行日;2012.9.21
初回作成日;R2.2.6

 この書の原題は「Management Revised Edition」で、ドラッカーの著作を、彼の同僚であり友人であったジョセフ・マチェレロ教授が再編集したものになっており、上下2巻が同時は発売されている。今回は下巻を紹介する。
 上巻に続いて、マネジメントの重要性を強調しており、そのことを大会社におけるその失敗と成功の歴史を細かく語ることにより例証している。

 冒頭の第22章は「マネジメントの必要性」で、次のように始めている。
 『マネジメントの人間は、組織にとって基礎的な資源である。オートメーション化された工場には、―般従業員がいないことがある。だが、マネジメントの人間はいる。
マネジメントの人間は、企業において最も高価な資源である 。最も早く損耗し、最も頻繁に補強を要する。マジメントチームを構築するには何年もかかる。しかし運用を誤るならば、急速に価値を減ずる。マネジメントの人間一人当たりに必要とされる資金も増える一方である。過去半世紀の増加傾向はこれからも続く。
同時に、マネジメントの人間一人ひとりに要求される能力も増加する。これまで一世代ごとに倍増というスピードで増大してきた。今後鈍化する見込みはない。』(pp.2)

 確かに、中国やアフリカの企業のニュースなどには、このことが明らかに見える。しかし、このことは日本に当て嵌まるのだろうか。高度成長時代の日本では、マネージャーは広範囲なことを何でもこなさなければならなかった。しかも、周りは新しいものばかりだった。今のマネージャーは、当時よりも遙かに専門化が進み、守備範囲が限られているように見える。
 だが、メタエンジニアリング的に一歩下がって考えると、それだから日本の企業、特に製造業の生産性が、諸外国に比べて上がらないとも云える。つまり、マネージャーへの投資が少なすぎる。社内の経験から、年功序列で自然に育つと考えている節がある。そのことを気づかせる記述に思える。

 実例は、フオードとGMの盛衰と復活の詳細になっている。創業者支配の会社から、マネジメント重視の会社への転換の様子を示している。

 『しかしスローンは、GMの事業が何であり、組織構造がいかなるものでなければならないかを考え、規律のない封建領主たちをーつのトップマネジメント・チームに組織した。その結果、五年後には、GMは、アメリカの自動車産業においてトップの座を占めるにいたった。
その二〇年後、今度はヘンリー・フオードの孫がGMの考えの正しさを証明した。すでにフオードは破産寸前の状態にあり、ー九二〇年代はじめに稼いだ一〇億ドルは、毎年の赤字の補填に使われてしまっていた。一九四六年、孫のフオードがスローンを見習い、トップマネジメント・チームをつくった。こうしてフオード社は五年後には生気を取り戻した。GMの競争相手として復活し、ヨーロツパ市場ではGMをしのぐ存在となった。』(pp.5)

 それはつまり、「成長の段階」を世代ごとに登っていったということだった。
成長の段階とは、『オーナー経営者がワンマンで経営する企業からマネジメントを擁する企業への変身は、液体から固体への物質の変化に匹敵する変化である。それは、ある構造から次の構造への変化である 。スローンによるGMの構造改革に見られたように、-つの細織のなかで起こしうる変化である。
ただしそれは、これまたGMの例に見るように、コンセプト、原理、ビジョンを変えないかぎり起こしようのない変化である。ヘンリー・フォードはマネジメントを持とうとしなかった。その結果 、方向づけを誤り、疑心暗鬼を生み、組織を破壊した。』(pp.7)

 日本の会社は、大企業も中小企業も「コンセプト、原理、ビジョンを変えること」は、果たしてできるのだろうか。そこには、伝統的な日本文化の存在がある。

 第40章には、チーム型組織についてである。失敗の原因が、3種類のチームの使い分けの間違えに起因しているとしている。それぞれは、「何に対して使われるか」によって全く異なる。「構造、強み、弱み、限界、条件、求められる行動」などが異なるからである。

第1のチームは「野球型」。」心臓手術をするチームは、チームに属してプレーをするが、守備範囲は決まっており、その中では個人としてプレーをする。

 第2のチームは「サッカー型」。日本の新車開発チームが例に挙げられている。野球と同じくポジションはあるが、常にチームとしてのプレーをする。

 第3のチームは「テニスのダブルス型」。少ない人数で訓練を積み、一丸となって行動する。
 私には、ジェットエンジンの開発は、この型だったように思う。そうでなければ、何回かの危機を乗り越えて成功まで到達することはできない。

 そして、マネジメントの役割を次のように結んでいる。

 『チームとは手段である。それぞれの型のチームには、それぞれ独自の用途、特徴、条件、限界がある。チームワークは善でもなく、あえて期待すべきものでもない。たんなる事実である。ともに働くとき、あるいはともにプレーするとき、人は常にチームで働く。
いかなる目的のために、いかなる型のチームを使うかは、困難で危険をともなう決定である。しかも、その決定は行なわずにすますわけにはいかない。マネジメントたる者は、この決定をいかに行なうかを学ばなければならない。』(pp.306)

このチーム論は、私の経験にはよく当て嵌まるように感じる。例えば、V2500の国際共同開発は、野球型だった。その後作ったVE(価値工学)部はテニス型、新たに設立したIHIエアロスペース社はサッカー型で、そのためにうまく運営ができていたように思う。

最後に、知識社会への移行に伴って、肝心なことは「わかりやすくすること」としている。ここでは、アインシュタインが、世間に相対性理論を理解してもらうために行った努力を例に挙げている。彼は、相対性理論を「わかりやすくすること」に専念した。

『われわれには知識労働者の独善を許す余裕はない。知識は力である。かつて知識ある者たちがその知識を秘匿したのは、まさにそれが力の源泉だということを知っていたからである。だが知識社会においては、知識は秘匿することによってではなく、伝達することによって力を発揮する。
ということは、知識ある者たちの唯我独尊を許すことはできないということである。知識ある者は理解されなければならない。同時に、他の者の知識を理解しなければならない。』(pp.426)
 というわけなのだが、どうもこのことが、現代日本ではうまく進んでいるようには感じられない。
 

メタエンジニアの眼シリーズ(161)はやぶさ-生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話

2020年02月02日 08時39分38秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(161)
TITLE: はやぶさ-生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話
書籍名;「はやぶさ」[2010]
著者;川口淳一郎 発行所;宝島社
発行日;2010.12.24
初回作成日;R2.2.2 最終改定日;
引用先;メタエンジニアリング



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
 
 この本は、区立図書館の放出本の中から、偶然見つけた。副題は「そうまでして君は、生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話」で、プロジェクトの発想から、帰還後の成果評価まで、プロマネならではの逸話も含めて、記されている。川口教授には、20年位前に淵野辺の宇宙研でお会いしたように思うが、その穏やかな口調は変わりない。ここでは、この著作に向けた心の中だけに注目をしてみる。
 
「はじめに」は、この言葉で結んでいる。
 『やぶさ」のプロジェクトで目指したものは、もちろん技術実証もありますが、次代を担う人材を育成することです。宇宙や科学技術にはまだまだ夢があるんだと示すことで、若い方に希望を与えたい。子どもにもその親にも、宇宙開発や科学技術に少しでも関心をもってもらいたい。「はやぶさ」で刺激を受けた子どもたちが、たとえその後、宇宙を目指さなくても、どんなジャンルでもい これほどうれしいので、新しい知的な挑戦を志すようになってくれれば、一技術者として、これほどうれしいことはありません。本書がそのきっかけになれば幸いです。 2010年12月川口淳一郎』(pp.11)

 彼の頭の中に、このプロジェクト以前から終始あったことは、此のことではないだろうか。
 
『「二番ではダメなんですか?の裏側にある危険 」
「一番でなければダメですか?二番ではダメなんですか?」 事業仕分けのとき、こんな言葉が話題になりましたが、宇宙開発の現場からいわせていただくと、「二番じゃ話になりません。一番を狙わないと、永遠に一番にはなれません」というのが本心です。 そもそも、「二番を狙う」などという、器用な真似はできません。一番にNASAがあり、「その次でいい」と考えていたら、あっという間に他の国に追い抜かれてしまいます。それでいいのでしょうか。 投資に対する考え方がおかしいと思います。宇宙開発への投資を無駄と思うのは、目先の利益につながらないからでしょう。でもそれは、あまりに短絡的です。なんのために投資を行うのか。日本で暮らしている人が、この国に対する自身と誇りをもてるようにするためだと私は思います。豊かな国に生まれ、育ち、自分の子孫たちにもこの国を残したい。そんな誇りをもってもらうために投資しているはずです。「二番でいい」という国に誇りがもてますか?』(pp.217)

 「「二番でいい」という国に誇りがもてますか?」とは、言いえて妙と思う。「なんのために投資を行うのか」の「なぜ?」が、当時は抜けていたのだろう。

そして、アメリカの事情を例にとり、このように結んでいる。
 『そのことをもっともよく知っているのがNASAです。NASAのホームページを見ると「日本の『はやぶさ』は、小惑星への往復に成功した二番目の探査機である」となっています。一番は「アメリカの『スターダスト』である」と。
また、小惑星に最初に着陸したのは「アメリカの『ニアシューメーカー』である」で、「はやぶさ」は二番目になっています。
確かに 、スターダストが彗星を往復したのは事実ですが、やったのは彗星の近くを通過しながら宇宙の麟を集めることで、 着陸はしていません。しかも、飛行は弾道でした。 ニアシューメーカーは、着陸させたのではなく 、「燃料がなくなって小惑星に落とした」が正しい。「はやぶさ」とはやっていることの意味がぜんぜん違いますが、向こうのホームページでは必ず二番目の扱い。小惑星に着陸して、その後、離陸し、さらに帰還したのは「はやぶさ」しかありま せんが、そのことにはまったくふれていません。とにかく、徹頭徹尾、「アメリカが一番である」としか書いていないのです。』(220)

多民族国家のアメリカの事情からは、「アメリカが一番である」という発言が、いかに威力のあるものかは、期せずしてトランプが証明してくれた。一方で、国家に対する愛国心が薄れてしまった日本では「日本が一番である」は、予算獲得にすら通用しない。この状況をただすのに、あと何十年かかるのだろうか。
「幸運を、本当の実力に変えなくてはならない。」とも、彼は言っています。

メタエンジニアの眼シリーズ(159)「ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス(ZEH)が切り開く未来」

2020年02月01日 08時21分48秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(159)      

TITLE: 「森の時代」
書籍名;「ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス(ZEH)が切り開く未来」 [2020]
発言者;隈研吾  発行所;読売新聞 朝刊
発行日;20120.1.28
初回作成日;R2.1.28 最終改定日;
引用先;メタエンジニアリングとは何か
 
 この記事は、今月行われた「日経 社会イノベーションフォーラム」の特集記事で、4つの主だった討論が2面にわたって書かれていた。その記事を読んで、通常のエンジニアリングとメタエンジニアリングの違いを強く感じた。
 私は、メタエンジニアリングの研究に携わって以来、常にまず考えることは、この区別であるからだ。近年はイノベーション議論が盛んで、特にどうやって新たなイノベーションを起こすかの議論が氾濫している。しかし、過去のほぼすべてのイノベーションは通常のエンジニアリングか、またはその組み合わせ、すなわちマルチ・エンジニアリングの範囲内で起こっている。人類の全歴史を通してみると、農業・灌漑革命、鉄器文化、機械化による大量生産などは破壊的イノベーションだった。現代のそれはパソコンとインターネットと様々なソフトを利用するSNSになっている。しかし、これらの末路は、いずれも大きな環境破壊か社会不安定化などに繋がってゆく。つまり、メタエンジニアリングが適用されていなかった。

 メタエンジニアリングの「メタ」は、ある物事をとことん考えて実行した後に、一つ上の次元に視点を移して、もう一度深く考えてみる、ということで、そのことをこの記事に当て嵌めてみる。
 結論は、第1の建築物は通常のエンジニアリングから出来上がったゼロ・エネルギー・ハウスで、第2の考え方がメタエンジニアリングから出来上がったゼロ・エネルギー・ハウスということだ。
 
 第1は、現在のゼロ・エネルギー・ハウス(ZEH)推奨論で、その省エネ効果は抜群であり、いかにしてさらに普及させるかの議論になっている。現在のゼロ・エネルギー・ハウスは、勿論様々なエンジニアリングの組み合わせでできており、一向に減らない民生用エネルギーの軽減には役立つだろう。しかし、メタエンジニアリング的に考え始めると、大きな懸念が沸き上がる。それは、この住居がすべてに行き渡って、何世代か経った後のことだ。ゼロ・エネルギー・ハウスに囲まれた街で育った子供たちに、自らコントロールしてエネルギーを節約しようという倫理観念が育つだろうか、といった疑問だ。日常の身の回りのエネルギーが、すべて自分の意志に係わらず自動的にコントロールされるなかで育った子供には、その観念は生まれないのではないだろうか。
 
 私のこの考え方は、品質管理の問題から起こっている。最近の大企業で頻発する品質に関する不祥事は、すべて共通の原因がある。それは、どの企業も立派な品質規定があり、それの中で作業をしていれば、品質問題は起こらないと考えていることだ。つまり、ひとりひとりが品質を自らコントロール(品質管理は、Quality Controlの日本語訳)しているという観念が死んでしまっている。私は、長年の実務経験からそう考えている。つまり、第1のZEHは自らエネルギー消費をコントロールしようという意識をなくすことに繋がる。
 
 第2は、メタエンジニアリング的な発言で、それは隈研吾氏の国立競技場の設計のやり方に、見事に表れている。途中で廃案となったザハ・ハディットの設計は明らかに通常の建築士のモノだったが、隈研吾のそれは、メタ建築士のエンジニアリングを強く感じる。
 彼の経験では、1959年に伊勢湾台風で多くの木造家屋は流されて、当時の建築学会が木造家屋禁止決議を行ったそうだ。そこで、鉄とコンクリート建築時代が始まってしまった。しかし、数十年後の結果はコンクリート・ジャングルであり、インフラの維持管理費の爆発的な増大が残されただけだった。
 彼は先ず、森の時代への移行を唱えて、異なる観点からのエネマネハウスを語っている。それは、先ず最頂部の高さをできるだけ低くすること。その点で、彼は恩師の丹下健三やザハ・ハディットの設計と反対の思想を取り込んだ。次に、法隆寺の五重塔から、庇の下の構造部材の耐久性と修理性・交換性の容易さを重視する基本設計を行った。つまり、将来のメインテナンス費用の最小化を図った。この設計は、ジェットエンジンの設計と全く同じ基本姿勢になっている。さらに、有名な話になっているのだが、その地域の風の流れを考慮して、冷暖房を使わずに暑さと寒さをコントロールする設計を随所の詳細設計に織り込んだ。
 
 私には、これこそが本来の正しいゼロ・エネルギー・ハウス思想に思えるのだが。