このところ
ずっと気になっていることがある
はじめに考えはじめたのは
高校の担任が
入学式をやすんで
自分の子どもの入学式に
出席したというニュースをみてからだ
この件について
教育委員会の方が苦言を呈した
ことに対してネット上で
かなり強い口調で反論している
人の意見を読んだ
どの立場でものをみるかによって
判断はかわるものだし
実際に当事者になってみなければ
見えないものもあるだろう
この件の場合
個人の休みを取る権利や
母として子どもの入学式に
でたいという気持ちは
理解できる
実際、入学式に担任がいなくても
大きく支障をきたすことは
ないと思える
しかしなぜか
この件について違和感を感じるのだ
そして
この違和感を近頃
あちらこちらで感じるように
なってしまったのだ
個人の自由と権利は
不可侵の大切なことである
もちろん
ハッキリと意見を言って
立場を主張する人は多いし
まわりも同調する優し人で
いっぱいだ
しかし、
まわりの同調した人は
本当にそう思ってるのかな
「深く考えてなくても
まあ、いいか
反対意見を言うと
嫌なやつだと思われるし
めんどうだ
権利は権利
自由は自由
余計なこというと
時代おくれの
優しくないやつだとおもわれそうだ」
なんておもったり
あるいはほんとにいい人で
他人の気持ちになって
考えて、理解の深い人かもしれない
権利の主張や
自由に行動することは
当然であるから
はなから
違和感なく同調できている人
かもしれない
そしてそのどれでも
間違いないではないのであろう
個人的には
無言の圧力というか
常識の押し売りというか
決められごとは
きらいである
自分の意思で自由に動きたい
しかし
みんなが同じ意見の人ばかり
ではないのならば
個人の自由を通すということは
それに対して
反対の意見や
そのことで
嫌な思いや迷惑がかかるひと
が必ずいるということだ
自分を主張するあまり
他のことに気がつかない
あるいは
気がついても
やっぱり自分の都合が1番
自分の都合を1番にした人が
やり玉にあがるなら
やはり迷惑に思う人が
いるということだ
グローバル化によって
外国の考え方や感覚が
日本でも浸透してきた
新しい価値観を知り
世界は広がった
とても素晴らしいことだ
しかし
日本人が伝統的に受け継いだ
和の心はどう変化したのか
たすけあい
おもいやり
東日本大震災のときに
みんなが発揮して
そしてすがって
世界に日本人の姿として
発信された心のあり方は
うすれてきたのだろうか
教職は聖職か
という問いがある
教師は職業のひとつである
だから一般の職業の方と同じ
扱いですということだ
そうなると
休みをとる権利と自由
もちろん大丈夫だ
しかし
教師というのは
人を育てるのが仕事ではないのか
勉強だけでなく
担任ならなおさら
子どもたちと長くつきあい
影響を与えるものなのではないだろうか
ささいなことでも
たくさんいる生徒の中には
自分の子どもを優先した先生に
優しい自分の親をかさねて
理解した人がいるだろう
逆に自分たちが
二の次にされたことで
先生への気持ちが消えた人も
いるはずだ
その担任と一年間過ごすのだから
影響は大きいだろう
まだ未熟な子どもたちを
あずかって
人生をまなばせる職業が
教師だ
ならば
やはりここは
担任の生徒の入学式に
でるべきだったと思う
教師にとっては昔にくらべ
生徒をひどく
怒ることもできず
親がでてきたりして
やりにくいと聞く
そのせいかもしれないが
教師に対する尊敬の念も
なくなってきている気がする
しかし
教師が自分の仕事を
聖職ではないと思うのならば
それは教師にあたえられて
当然の尊敬されるべき
立場を自分で捨てたのと同じだ
そうして
育った子どもたちは
日本のほこるべき
和の心をひきつぐことが
できるのだろうか
たとえば
アメリカでは
教師はみな理由はどうであれ
自由に休むし
生徒も親もそれを問題には
しないよ
だいたい日本人は
細かいことにこだわりすぎだよ
なんて意見もあるだろう
たしかに面倒な話だが
でもそのこだわりが
日本人のいいところであり
世界に誇れる国を
つくっているのではないだろうか
権利と自由と和の心が
あいいれて
新しいよい日本の心が
うまれることに期待したい
この件については
これからも考えていきたい