前にも書きましたが関ケ原合戦(9月15日)の前日14日に争いがありました。この争いが本戦に大きく影響しました。
合戦に備え東西陣営が関ケ原の東 大垣に集結しておりました。
徳川家康は大垣市赤坂町にある岡山(今は勝山と呼ばれており合戦に勝利した家康が名付けた)に陣を構えた。
対する石田三成は大垣城に陣を構えておりました。両軍とも詰めの作戦中に戦いが起きました。
大垣城内に展示してある14日の各陣営ジオラマ
大垣城の西軍
岡山の東軍
googleMAPから 岡山と大垣城は直線距離で4Km弱、その中間を流れる杭瀬川で戦いがありました。
大垣城の資料から
杭瀬川の戦いで勝利を収めた西軍大名の中に東軍が動揺しているうちに 「大垣城主の伊藤盛正は西軍の応援をして
地形は把握しており夜襲をかけてはどうか」と島津義弘から意見があったが石田三成は関ケ原での勝算を読み却下した。
この判断が本戦で西軍の足並みが乱れた。