四季と自然とはりんこの花菖蒲

季節の草花を撮り歩き 家では花菖蒲にボケてます

関ケ原合戦 前日の戦い

2023年11月08日 | その他

前にも書きましたが関ケ原合戦(9月15日)の前日14日に争いがありました。この争いが本戦に大きく影響しました。
合戦に備え東西陣営が関ケ原の東 大垣に集結しておりました。

徳川家康は大垣市赤坂町にある岡山(今は勝山と呼ばれており合戦に勝利した家康が名付けた)に陣を構えた。


対する石田三成は大垣城に陣を構えておりました。両軍とも詰めの作戦中に戦いが起きました。

大垣城内に展示してある14日の各陣営ジオラマ

大垣城の西軍

岡山の東軍

googleMAPから 岡山と大垣城は直線距離で4Km弱、その中間を流れる杭瀬川で戦いがありました。


大垣城の資料から


杭瀬川の戦いで勝利を収めた西軍大名の中に東軍が動揺しているうちに 「大垣城主の伊藤盛正は西軍の応援をして
地形は把握しており夜襲をかけてはどうか」と島津義弘から意見があったが石田三成は関ケ原での勝算を読み却下した。
この判断が本戦で西軍の足並みが乱れた。

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徳川四天王の井伊直正と本田忠勝

2023年11月07日 | その他

井伊直正と松平忠吉は開戦と同時に先陣を切って西軍副大将の宇喜多秀家隊に挑んだ




関ケ原古戦場記念館より 


槍の名手として有名な本田忠勝は防衛に回り、東軍大名のまとめ役を担っていた。

関ケ原古戦場記念館より

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関ケ原開戦地と小西行長

2023年11月05日 | その他



開戦地から数十メートル後方、天満山の北に陣を構えた小西行長陣跡


関ケ原古戦場記念館より

現在の開戦地、行長はここで東軍を迎え戦った。

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西軍副大将 宇喜多秀家

2023年11月04日 | その他




武将の陣跡をめぐる中、歴史を感じさせる杉並木を歩くと、まだ暑い秋の木漏れ日に澄んだ空気が爽やか。

西軍最大の兵17000を率いて天満山の南に陣を構えた宇喜多秀家



満天神社境内に陣を構え、攻め入る東軍と激しい戦いを続けた宇喜多軍。


旗印は先祖が治めていた児島という地名の「児」を付けたようです。
関ケ原古戦場記念館より

合戦に敗れ伊吹山麓に逃れたが落ち武者狩りの矢野五右衛門に捕らえられた。しかし秀家の潔さに感服した五右衛門は自分の
領地(今の岐阜県揖斐川町白樺地区)に匿った後 大阪・薩摩と3年の月日が流れ最後は八丈島へ流刑された。

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関ケ原合戦 烽火場と黒田長政と竹中重門

2023年11月03日 | その他

東軍の岡山(地元では丸山と呼ばれている)烽火場(合戦の合図を行った場所)





黒田長政の父は秀吉の軍師として仕えた「黒田官兵衛」です。けど色々あって東軍での参戦、功労者として大出世。
竹中重門の父も秀吉の軍師として仕えた「竹中半兵衛」で、半兵衛は黒田長政にとって命の恩人です。
(黒田官兵衛を裏切り者と勘違いした信長は秀吉に息子の長政の処刑を命じたが半兵衛の妙案で助かった)


関ケ原駅から5分くらいの場所から望む岡山(丸山)烽火場

同じ場所からの関ケ原古戦場記念館

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