水門川を挟んだ大垣市の桜が満開になりました。
桜が花いっぱいになるのは葉っぱが花の後に出てくるのと、一つの蕾から平均4つの花が咲くためです。
松尾芭蕉は俳句の旅『奥の細道』をここで終わりました。
奥の細道 最後の句『蛤のふたみに分かれゆく秋ぞ』 大垣の人々や弟子たちと別れを惜しむ句です。
『ふたみ』は蛤の蓋と身と伊勢の二見をかけており、芭蕉は水門川から揖斐川を経て伊勢の二見ヶ浦と伊勢神宮へ参拝して
故郷の伊賀上野へ帰りました。っと聞いております。
大垣城。空襲で焼けるまで天守は国宝に指定されておりました。(今は鉄筋コンクリートです)
慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原合戦前日まで石田三成の本拠地になっておりました。
ちなみに徳川家康も同じく大垣の岡山(今の 勝山)に陣をかまえておりました。
全然知られていませんが、合戦の前日14日に大垣で予戦が行われて、西軍が勝っております。
これを『杭瀬川の戦い』として記録が残っております。多くの武将は関ケ原に待機しているので
三成は予戦の勢いで隊を整えそのまま家康の陣に攻め込んだら勝っちゃったかもです。