ハリソン・フォードのポリス・ムービー第2弾は、1997年に公開されたアラン・J・パクラ監督によるアメリカ映画。ブラッド・ピットとの2大スター競演が話題になりました。
今回ハリソンが演じるのは、ニューヨーク市警の実直なパトロール警官=トム・オミーラで、聡明な妻と三人の娘を持つ良き父親でもあります。
一方、ブラピが演じるのは幼い頃にIRAシンパの父親が眼の前でイギリス人に殺され、やがてIRAの活動家すなわちテロリストとなったアイルランド系の若者=フランシス・マグワイヤー、通称フランキー。
CIAにマークされたフランキーは偽装パスポートでアメリカに渡り、しばらく別人としてニューヨークに潜伏することに。そこで組織が手配した下宿先が、よりによって警官のオミーラの家。それ以上に安全な場所は無いだろうってワケです。
もちろん、オミーラはフランキーの正体を知らず、やっと男の家族が出来たと言って大歓迎します。そしてフランキーも亡き父親の面影をオミーラに重ね、二人の間には疑似親子みたいな感情が芽生えていく。
ところが銃器調達の取引相手とトラブったフランキーはそいつらにも命を狙われ、オミーラの家族を巻き込んじゃう。それでフランキーの正体を知ってしまったオミーラは、彼と対決せざるを得なくなるワケです。
私は決して悪くない作品だと思うけど世間の評価は厳しく、興行的にも2大ビッグネームを揃えた作品にしてはパッとしない成績に終わりました。撮影中からハリソンとブラピの不仲説が流れちゃったのが、けっこうな痛手だったかも知れません。
その不仲説の詳細は『エアフォース・ワン』のレビュー記事に書いたので今回は割愛しますが、要するに『刑事ジョン・ブック/目撃者』('85) の頃と比べてハリソンが大御所になり過ぎちゃった事による弊害だろうと私は睨んでます。
大御所になると、本人が何も言わなくても周りが忖度して色々やっちゃう。出演が決まった途端に「ハリソンが出るなら出番を増やさなきゃ!」「ハリソンが演じるキャラをもっと掘り下げなきゃ!」って、脚本に後から手を加えたりする。それでバランスがおかしくなっちゃった映画の典型例が、ハリソンが『デビル』の前に主演した『サブリナ』だろうと思います。
今回の場合、中盤でハリソン扮するオミーラが相棒と二人で銃を持った窃盗犯を追いかけ、射殺しちゃうくだりが如何にも後から足されたような感じがします。
犯人は途中で銃を捨てて丸腰だったのに、相棒がそいつを背後から撃っちゃった。その事実が明るみになれば相棒は警官でいられなくなる。悩みに悩んだオミーラは、真実を闇に葬り、代わりに自分が警官を辞める決意をする。
いい話なんだけど面白いとは言いがたく、重苦しい上に本筋と全く絡んで来ないから、そこで流れが思いっきり停滞しちゃうんですよね。
かようにクソ真面目な性格のオミーラだから、フランキーがテロリストである限り対決せざるを得ないんだ、仕方がないんだってことを言いたいんだろうけど、くどいです。
あの時期のハリソンはそんなキャラクターばかり演じて、その結果同じような芝居を繰り返す事にもなり、大ファンの私ですら食傷気味でしたから、余計にくどく感じちゃう。
実直なお人柄は見てりゃ判るんだから、それをわざわざ強調する時間があるなら、オミーラとフランキーの交流をもっとじっくり描いておくべきでした。その肝心な部分がおざなりにされてるのが、ストーリーの致命的な欠陥になり、主演者2人の不仲を裏付けるような結果にもなっちゃった。事実はどうあれ、世間はそう感じてしまう。
当時のハリソンとブラピは、映画雑誌における人気投票で共に1位、2位を競う存在でしたから、そんな2人によるせっかくのコラボが不発に終わっちゃったのは、あまりに勿体無いとしか言いようがありません。
10と10を足しても20になるとは限らない。いや、うまくいくことの方がかえって珍しい、2大スターの競演作にありがちな顛末でした。
なお、女優陣はオミーラの妻役にマーガレット・コリン、フランキーの恋人役にナターシャ・マケルホーンという顔ぶれでした。
ちなみにオミーラの使用拳銃はS&W-M10ミリタリー&ポリスの4インチ・ヘビーバレル。ミリポリがお気に入りなんでしょうか?(そういう趣味は無さそうだけどw)
1985年に公開され大ヒットした、ピーター・ウィアー監督&ハリソン・フォード主演によるアメリカ映画。第58回アカデミー賞の作品賞はじめ4部門にノミネートされた作品です。
『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』に続いて主演したこの作品で、ハリソンは初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされ、アクションヒーロー以外の役でも魅力的に演じられることを証明し、俳優としてもスターとしても一気に株を上げて押しも押されぬ存在となりました。
また、このブログとしてはハリソンが初めて刑事を演じた作品としても外せません。SF映画『ブレードランナー』で演じたリック・デッカードも近未来の「特捜刑事」みたいに呼称されてますが、あれは警察官というより探偵、あるいは殺し屋と呼んだ方がしっくり来ます。
だからハリソンの純然たる「刑事ドラマ」としては、これが最初の作品。プロットは至ってシンプルなもので、オーストラリアの名匠=ピーター・ウィアー監督はハリウッドに出向いて「人気スター主演のプログラムピクチャー」を撮るつもりで臨んだのに、思わぬ高評価が舞い込んで逆に戸惑ったそうです。
ハリソンが演じたのはペンシルベニア州のフィラデルフィア市警・殺人捜査課に所属する中堅刑事=ジョン・ブック。ランカスター郡に実在する「アーミッシュ村」から母親=レイチェル(ケリー・マクギリス)と二人でボルティモアへ向かってた幼い少年=サミュエル(ルーカス・ハース)が、乗り換えで立ち寄ったフィラデルフィア駅のトイレで殺人現場を目撃してしまい、ブックはその捜査を担当することになります。
で、少年の証言により、犯人が同じ署の麻薬課に所属するベテラン刑事=マクフィー(ダニ―・グローバー)であることが判明。それを上司に報告した直後に命を狙われ、上司もグルであることを悟ったブックは、レイチェル&サミュエルを避難させるべくアーミッシュ村へと送り届けるんだけど、襲撃された時に撃たれた傷により気を失っちゃう。
で、19世紀式のお祈りと薬草によりw、何とか蘇生したブックは、傷が癒えるまでの間アーミッシュ村に身を潜めることになる。それで夫を亡くしたばかりのレイチェルと禁断の恋に落ちていくワケです。
なぜ「禁断」なのかと言えば、レイチェルがアーミッシュの女だから。キリスト教の非主流派として近代文明を拒絶し、非暴力主義を唱えて質素に暮らすアーミッシュの人々から見れば、大都会から来た暴力刑事であるブックはエイリアンそのもの。しかもレイチェルは未亡人になったばかりで、よそ者とすぐにチョメチョメするなど言語道断。もし結ばれたいなら全てを棄てなきゃいけないワケです。
それでも純真なレイチェルは、全面的に受け入れOKをアピール。だからこそブックは葛藤します。レイチェルが純真であればあるほど、そしてアーミッシュの素朴な生き方が好きになればなるほど、彼女からこの暮らしを奪えなくなっちゃう。
そうして我慢に我慢を重ねたブックがフィラデルフィアに帰ることを決めたその夜、二人の想いがついに爆発しちゃう。たぶん一晩中チョメチョメしまくった翌朝、殺しにやって来た悪徳刑事たちを撃退したブックは、なにも言わずにアーミッシュ村を去って行くのでした。
以上のあらすじに書いたブックやレイチェルの心情は、あくまで私が「多分そういうことだろう」と推測したものに過ぎず、セリフでは一切語られません。だからこそ名作なんですよね。もし語っちゃったらウィアー監督が仰った通りのありきたりな「プログラムピクチャー」で終わったかも知れません。
なのに、本作を初めて観た時の私はまだ20歳直前のガキンチョでしたから、いまいちピンと来ませんでした。数あるハリソン・フォード主演作の中で最もアクションが激しかった『魔宮の伝説』に続く作品だけに、ダーティハリーばりのバイオレンスがたっぷり見られるとばかり思ってましたから。
だけど今となっては、本作が心に染みる名作であり、ハリソンフォード・ファンの多くが「ナンバー1」に挙げる気持ちもよく解ります。ドラマとしての完成度は間違いなくトップクラスでしょう。
まずアーミッシュと呼ばれる人々が実在してる点にこの上ない説得力があるし、その生活ぶりがじっくり描かれることで刑事物らしからぬ映像美を堪能できるし、モーリス・ジャール氏によるシンセサイザー音楽がまた奇跡のマッチングぶりで、ちょっと他に類を見ない世界観なんですよね。
そして何より、タフなヒーローが似合いつつどこか不器用で、イケメンでありつつどこかイモっぽいハリソン・フォードの個性がこれほど完璧に活かされた作品も他に無いかも知れません。
翌'86年に『トップガン』で現代的ヒロインを演じるケリー・マクギリスも、'88年に『ダイ・ハード』でテロリストを演じるアレクサンダー・ゴドノフも本作が映画初出演で、不思議とアーミッシュの役がよくハマって輝きまくってます。
子役のルーカス・ハースも素晴らしいし、後に『リーサル・ウェポン』シリーズで世界一善良な刑事を演じるダニ―・グローバーの悪徳刑事ぶり、まだ全く無名だったヴィゴ・モーテンセン等、キャスティングの半端ない的確さがまた凄い、凄すぎる。
勿論、もはや無数に舞い込むオファー中から、一見地味な本作を選んだハリソンの選択眼も神がかり的だし、様々な要素の組み合わせが奇跡の化学反応を起こして傑作を生んだ、これはその典型例の1つかと思います。
この後、再びウィアー監督とタッグを組んだ『モスキート・コースト』は興行的に振るわなかったものの、ハリソンは『ワーキング・ガール』や『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』『パトリオット・ゲーム』そして『逃亡者』などのメガヒット作を連発し、いよいよハリウッドの頂点に君臨することになります。
だけどハリソンが最も輝いてたのは、俳優としてもスターとしても果てしない伸びしろを感じさせた、この『刑事ジョン・ブック/目撃者』の頃だったかも知れません。確かご本人もそんな風に仰ってたような記憶があります。
とにかくハリソンもケリーもお若い! まさにピチピチ&キラキラ状態で、それだけでも観る価値があり過ぎるぐらいあります。超オススメ!
PS. 本作でブック刑事が愛用する拳銃が、S&W M10ミリタリー&ポリスの2インチ旧型。何も知らずにいじろうとしたサミュエル少年に、ブックがその危険さを教え諭すシーンで、この銃が何度もクローズアップで映ります。
非常にクラシカルな拳銃で、'85年当時でもあまり活躍の場が無かったやも知れず、リボルバー好きのガンマニアには垂唾ものの映像であろうことをついでに記しておきます。私も大好きな機種で、モデルガンをいくつか持ってます。
2020年3月現在公開中のアメリカ映画。我らがハリソン・フォードが単独で看板を張られた映画の公開は2008年の『インディ・ジョーンズ/クリスタルスカルの王国』以来12年ぶり!とあって、ウィルスの恐怖にもめげず観に行って参りました。
ディズニー映画みたいに宣伝されてますが、製作はまだ名前に「フォックス」が付いてた頃の20世紀スタジオで、その会社が昨年からディズニー傘下になった結果のディズニー配給かと思われます。
まずは公式映画サイトに掲載された紹介文から一部抜粋させて頂きます。
↓
「ハリソン・フォードが主演を務め、アメリカの文豪ジャック・ロンドンが1903年に発表し、過去にも映画化されたことのある名作冒険小説を新たに映画化。
地上最後の秘境アラスカで地図にない土地を目指し、ひとり旅する男ソーントンが、犬ぞりの先導犬としてアラスカにやってきた犬のバックと出会う。やがてソーントンとバックの間には友情が生まれ、かけがえのない相棒となっていく。
『スター・ウォーズ』シリーズなどで数々のカリスマ的ヒーローを演じてきたフォードが、主人公ソーントンに扮した。監督は『リロ&スティッチ』『ヒックとドラゴン』といったアニメーション映画で言葉の壁を越えた友情を描いてきたクリス・サンダース」
↑ 以上の解説文だけ読むと、まるでハリソンの新たな冒険ヒーローシリーズが始まるみたいに感じるけど、実際は全然違います。主役はあくまで犬のバックであり、その相棒がハリソン。バックがハン・ソロでハリソンはチューバッカなんですw
ハリソン扮するジョン・ソーントンは冒険家でもなんでもなく、愛する息子を病気で失い、それがきっかけで妻とも別れてしまった孤独な老人。
ゴールドラッシュに沸く19世紀末(黄金狂時代)のカナダが舞台で、ソーントンは別に一攫千金を狙ってるワケじゃなく、息子が生前に夢見てた未開の地への探検を、そり犬のバックと出逢ったことをきっかけに実行してやろうと思い立っただけ。具体的には言わないけど、たぶん死に場所を求めてる。
そんなソーントンの冒険が描かれるのはストーリーの後半で、前半は大富豪の呑気な飼い犬だったバックが悪徳商人に誘拐されて売り飛ばされ、そり犬としてこき使われてる内に少しずつ、野性の本能に目覚めていく過程が描かれます。
ハリソンがほとんど登場しない前半のストーリーが、果たして犬が主役で成立するの?って思われるでしょうが、これが成立するんです。なぜなら、このバックという犬が人間以上の演技をして見せるから。
実はこのバック、全編CGで描かれてるんですよね。バックだけじゃなく、登場するほとんどの動物も、そして恐らく背景も大半がCG。だからアニメーション畑の人が監督されてるワケです。
最初はやっぱり違和感があります。めちゃくちゃあります。あまりに表情が豊かすぎて、言葉は喋らないのに犬が何を考えてるのか全て理解できちゃう。それが正直言って気持ち悪いw
でも、それは観てる内に慣れていきます。動物映画の新しい手法として「こんなことも出来るようになったのか」と受け入れさえすれば、普通に楽しめるかと思います。
私はとにかく、すっかり脇に回ることが多くなったハリソンの演技を、久々にじっくり観られただけで充分嬉しいし、犬=CGと絡むハリソン・フォードっていう構図も新鮮で楽しめました。
でも、作品として好きかどうかと問われれば、私は下手でもいいからホンモノの犬の演技が観たいです、って答えるしかありません。犬があんなに表情豊かで、カメラ位置を完璧に把握して動くのって、やっぱどう見ても不自然です。
それはたぶん、私が大人で、ホンモノの犬にそんなことが出来るワケないって知ってるから感じる不自然さなんですよね。幼い子供たちはそれを知らないし、逆にCGには慣れてるでしょうから、純粋に楽しめるだろうと思います。
創り手たちもそこを意識して創った筈で、ディズニージャパンはもっと幼年層にアピールできる宣伝をすべきでした。坂上忍のペット愛なんかどーでもええねんっ!(ハイパー激怒。あのCMは本当に酷い)
唐突に怒ったついでに言わせてもらうと、パンフレットを買おうとしたら『野性の呼び声』のパンフは制作されてませんと来た。はあ? 私はハリソン・フォード出演作はほとんど劇場で鑑賞しており、パンフレットも全部買ってコレクションしてますから、無いと困るんですけど?
確かに本作はチラシを見た時から「まずヒットはしないだろう」とは思ってました。だからパンフの需要も少ないだろうと配給側が判断したんでしょう。
だけど、それでもわざわざ足を運んで、安くない交通費と入場料を払って、ウィルス感染のリスクまで背負って観に来てる観客が何人もいるんですよ! ちょっとぐらいやる気を見せてくれんかね? 映画を創った人たちに対しても失礼でしょう?
ディズニー傘下になる前の20世紀(FOX)スタジオ作品、つまりウチらが創った映画じゃないからって事なんでしょうか? それとも不景気がいよいよ深刻化してパンフを作る余裕すら無くなった?(もしかしてウィルス問題で客足が鈍ると判断してのこと?)
なんにせよ、パンフレットが無いのは残念にも程があります。やってられません。
だけど作品に罪はありません。小さいお子さんをお持ちの方には安心してオススメ出来る映画です。ハリソンも相変わらず上手いし魅力的です。ただいま上映中です!
どう考えても無謀だろうと思ってたのに、ホントに創られちゃった『ブレードランナー』の、リドリー・スコット製作、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ライアン・ゴズリング主演による、正真正銘の続編です。
それが無謀だと思ってた理由の1つに、前作に主演したハリソン・フォードがえらく『ブレードランナー』という作品を嫌ってた事実が挙げられるんだけど、それは『スター・ウォーズ』シリーズとて同じこと。30年も経てば嫌な記憶も薄れ、作品への評価も変わり、メジャー大作でまた注目されたい気持ちも湧いて来るのが人情ってもんで、ハリソンも元ブレードランナー=リック・デッカードとして再登場してくれました。
『ブレードランナー』はスターの魅力で見せる種類の映画じゃないんだけど、もしハリソン・フォード主演でなければ私は繰り返し観賞することもなく、作品自体の魅力が理解出来ないまま終わってた筈で、やっぱあくまでハリソンありき。ハリソンが出なければ続編もスルーしたと思います。
さて、その内容と感想ですが……(ネタばらしはしませんが、観賞前で先入観を持ちたくない方は読まないで下さい)
前作から30年後のロサンゼルスやサンフランシスコが舞台で、やはり気候不順は更に進み、雨を通り越して雪が降り続く未来世界。
繁華街は相変わらず和洋折衷なんだけど、より整然と管理されてる印象で、前作で感じた人々の活気やノスタルジーによる妙な居心地良さが、今回は感じられませんでした。
いま現在の世界における未来への絶望感が如実に反映されてて、とてもリアルだとは思うんだけど、この続編は映画ファンに前作ほど熱狂的には愛されないだろうなって、私は思いました。
ストーリーも、前作のB級テイストが鳴りを潜め、とても高尚な本格SFに昇華された感じがして、ちょうどリドリー・スコット監督の旧作『エイリアン』と最新作『エイリアン:コヴェナント』との違いに似てる気がしました。
それに伴い刑事物テイストも薄くなり、ハリソンが出てること以外で私が本作を好きになる理由が、ほぼ無くなっちゃいました。物凄い傑作なのかも知れないし、これも2回、3回と観ればハマっていくかも知れないけど、私は今のところ是非もう一度観たい!っていう気分にはなってません。
『映画秘宝』のライターさんが「優等生すぎる」「謎を全て明かすことに意義があるのか?」みたいな批判を書かれてましたが、私も全く同感です。
前作にあったスキとか矛盾、愛嬌みたいなものが、この続編には見当たらないんですよね。たぶん、前作が何度観ても飽きない理由って、そこにあったような気がするワケです。
ヴィルヌーヴ監督に非は無いと思います。もし今のスコット監督が撮ったら、もっと冷たい世界になってるかも知れません。ヴィルヌーヴ監督はとても誠実に、多分とても正しい『ブレードランナー』の続きを創造された。問題は、観客がその正しさを好むか好まないか。
どんなお話なのかさわりだけ書きますと、ライアン・ゴズリング扮するブレードランナー「K」は最初からレプリカント・ハンティング用に造られたレプリカントで、人間たちから差別され、肉体を持たないA.I.の恋人=ジョイ(アナ・デ・アルマス=画像)だけが唯一の理解者という、孤独な日々を送ってる。
で、旧型レプリカントを処分した際に、さらに旧型の女性型レプリカントの遺体を見つけたことがキッカケとなり、単なる製造物じゃないかも知れない自分自身のルーツを探っていくことになる。その謎の鍵を握るのが、30年前にレイチェル(ショーン・ヤング)を連れて失踪した元ブレードランナー=デッカードってワケです。
つまり、これは人造人間「K」のアイデンティティー探求の物語であり、とても切ない結末といい、スピルバーグ監督がキューブリック監督の遺稿を映画化したSF大作『A.I.』によく似てるとも思いました。
だから、これが『ブレードランナー』の続きなんだということをあまり意識せず、アンドロイド「K」のピノキオ的なお伽噺として観るのが正解かも知れません。前作も実質はレプリカント側にドラマがあったワケで。
とは言いつつ、一度観ただけで容易に評価出来ない作品であるのは確かで、そこはやっぱ紛れもなく『ブレードランナー』の続編なんだなぁと思います。真の評価は、DVDやBlu-rayのソフトが発売されてから下されるのかも知れません。
ハリソン・ファンとしての満足度は、決して低くありません。デッカードの出番は映画が後半に入ってからだけど、贔屓目ぬきで俄然そこから面白くなったように感じたし、ストーリーの肝を担ってる点でも『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の時と同等に重要な存在でした。
ただ、前作の若きデッカードのニヒルな感じが全然無くて、いつも通りの「ハリソン・フォード」だったのが、ちょっと残念。前作の時はニヒルにやり過ぎたと反省し、もう老人だからって事もあって抑えた演技をされたんでしょうけど、私はニヒルなまま歳を取ったデッカードが見たかったです。
でも、後半はすっかりデッカードの話になってたし、ちゃんとアクションシーンもあるし、思わぬサプライズ・ゲストとのご対面もあり、ファン必見の作品であることは間違いありません。
どうやら世間じゃ賛否両論まっぷたつで、暗い映画ゆえ興行的にも厳しい感じ。前作の時と同じですw だから、この続編も長い眼で見て行くべきかと思います。
思い入れある作品の続編ゆえ色々書きましたけど、完成度はとても高く、観て損した気分になる映画じゃない事だけは確かです。
前作やハリソンのファンじゃない方にも、独特な地球の未来像を描いたSF映画として、あるいは人間とは何ぞや?を考えさせられる哲学映画として、そして切ないラブストーリーとしても、一見の価値は充分に有り!とオススメしておきます。
言わずと知れた1982年公開のリドリー・スコット監督、ハリソン・フォード主演によるSF映画のカルト大作にして金字塔。フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電子羊の夢を見るか?』を映画化した作品です。
舞台は2019年のロサンゼルス、なんと今から1年後というチョー近未来! もちろん1982年当時、ましてや原作が発表された'68年当時の感覚だと遠い遠い未来だったワケです。
それまでのSF映画で描かれた未来の地球は、文明が極度に発達した管理社会か、あるいは核戦争後のディストピアかの二種類だったんだけど、『ブレードランナー』はそのどちらにも属さない全く新しい未来世界を創り出しました。
それは根っからのビジュアリストであるスコット監督が、誰もやらない独自の世界観を構築する事にこだわり、東洋趣味を全開にさせた上、'30~'40年代の探偵小説やハードボイルド映画をモチーフにする事によって生まれた、究極のレトロ・フューチャー。
環境破壊の影響でずっと雨が降ってる荒廃した未来なのに、なぜか陰鬱な気分にならないのは、そんな暗くて混沌とした世界の中で「それでも、生きてゆく」人々の活気が感じられるのと、'30~'40年代を意識した映像に懐かしさを覚えるからかも知れません。
肉体労働や性的慰安の為に造られた人造人間=レプリカント達の一部が反乱を起こし、賞金稼ぎみたいな特捜刑事=ブレードランナーが彼らを捜索し、追跡、そして処分するという、ストーリー自体はごくシンプルなもの。
だけど、主人公のブレードランナー=リック・デッカード(ハリソン・フォード)が全然ヒロイックじゃないんですよね。拳銃が無いとレプリカントとマトモに闘えないし、丸腰で逃げる女性レプリカントを背後から撃ち殺すし、クライマックスは敵ボスとの一騎討ちかと思いきや、泣きそうな顔で逃げ回った挙げ句、ビルから落ちそうになった所を敵に助けてもらっちゃう始末。
私が『ブレードランナー』を初めて観たのは名画座の2本立て上映で、1984年頃。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』を観て、ハリソンの格好良くて人間味溢れるヒーローぶりに惚れ込んだ直後だったもんで、デッカードのヘナチョコぶりには心底ガッカリしましたw
それが後にビデオソフトが発売され、2度、3度と観直す内に、多くの映画ファンがそうなったのと同じように、私も本作の深さと独自性に魅了されるようになりました。
前述の通り「未来なのに懐かしい」レトロ・フューチャーと、和洋折衷のヘンテコ世界が生みだす摩訶不思議な魅力。そして実はシンプルな刑事ドラマとしての面白さに加え、寿命を設定されたレプリカント達が訴えかける「生命の尊さ」という普遍的テーマ。
初公開時にはヒットせず、評価もされなかった作品がビデオの普及によってカルトな人気を集め、再評価され、実は'82年に公開された『ブレードランナー』はリドリー・スコット監督の本来目指した形とは違ってる事実も知られるようになり、ちょうど10年後の1992年に「ホントはこうしたかったんだ」バージョンの『ブレードランナー』すなわち「ディレクターズ・カット/最終版」が公開され、これも私は劇場で観賞しました。
そのバージョンでは、オリジナル版公開時に「ストーリーが解りにくい」というクレームにより後付けしたハリソンのナレーションが全て削除され、「ハッピーエンドにしろ」という注文に対応して追加撮影したエピローグもばっさりカット。そして主人公=デッカード自身も実はレプリカントだった!という裏設定を匂わせるカットが逆に追加されました。
で、CG技術の進化を受けて細かいアラをデジタル修正し、さらに一部を撮り直して完成させたスコット監督の執念の賜物が、2007年に公開された『ブレードランナー/ファイナル・カット』。私が新作『ブレードランナー2049』公開の直前、友人A君と一緒に台風のなか観に行ったホントの最終バージョンです。
個人的には、ナレーションがあった方が解り易く、フィルムノワールな雰囲気も強調されて良いような気がするし、デッカード自身がレプリカントであるという設定には面白みを感じないんだけど、監督が「これこそ真の『ブレードランナー』だ!」と仰るなら、それはそれで納得するしかありません。
そもそも本作の魅力は設定やストーリーとは違う部分にあるワケですから、より完成度の高い「ファイナル・カット」が究極の『ブレードランナー』であるという意見に異論はありません。
やっぱり、観れば観るほど味わい深い映画です。本当に何度観ても飽きません。『ブレードランナー』の未来描写を模倣した作品をさんざん観て来たにも関わらず、オリジナルの魅力は全く色褪せてません。
未見の方、あるいは一度観たけどよく解らなかったと仰る方には、あまり筋を追わず世界観を楽しむことに集中して、もう一度じっくり再見されることをオススメしたいです。
ただ、ハリソン・ファンとしては、デッカードにもうちょっとカッコいい見せ場があっても良かったのにって、いまだに思ったりはします。
ヒロインのショーン・ヤングといい、レプリカント役のルトガー・ハウアーやダリル・ハンナといい、皆さんそのキャリアの中で最も輝いてると言っても過言じゃないくらい、キャラクターが魅力的なんですよね。それだけに主役のハリソンだけ損してる感が強いw それでもやっぱ格好良いんですけどね。
さて、2017年、まさかの続編『ブレードランナー2049』が公開されました。主役は『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴズリングだけど、ハリソンも30年後のデッカードとして再登場してくれます。その感想は、また次回に。