遠足に持って行くお菓子を選ぶのは、金額の上限(私の時代は300円位だったかな?)が決められてるからこそ楽しい。制限が無くなっちゃうと、かえってつまんない……みたいな話を、いつか観た情報バラエティー番組でやってました。
そんな心理を子供のしつけに応用して、オモチャをやたら欲しがる子には我慢を強制するよりも、上限を設定して「この範囲内で好きな物を選びなさい」って言った方が効果的なんだそうです。
なるほど!と膝を打ちました。私がなぜ、ことさら刑事ドラマを愛するのか? なにゆえ探偵物じゃダメなのか? そしてなぜ『あぶない刑事』は大好きなのに『もっとあぶない刑事』は楽しめなかったのか? その理由がハッキリ判った気がしたんです。
それはきっと、刑事ドラマというジャンルには、ガッチガチの揺るぎないルールがあるから。作劇パターンや決まり事が他のジャンルよりも多いから、なんだろうと思います。昨今の刑事ドラマに新しさが感じられない! 個性が無さ過ぎる!って、いつもボヤいてるクセに、矛盾してるじゃないかと思われそうだけど、私の中では辻褄が合ってます。
つまり、キッチリと定められた枠の範囲内で、如何にして遊べるか? 如何に創意工夫を凝らして、自分ならではのゲームを生み出せるか? それこそが、刑事ドラマならではの醍醐味なんじゃないかって、私は思うワケです。
犯罪のパターンも捜査の手順も、警察組織の枠組みや人物配置も、そして「罪を憎んで人を憎まず」っていう基本精神も、それを崩しちゃったら作品として成立しない、刑事ドラマの基本的な枠組みです。そんなガッチガチの世界の中で「こんな遊び方もあるんじゃない?」って、最初に示して見せたのが『太陽にほえろ!』なんだと思います。
長髪の刑事やニックネーム、殉職といったアイデアも、若者(新米刑事)の成長を描く「青春ドラマ」としての作劇も、それまで誰にも思いつかなかった「新しい遊び方」であり、やがてそれが王道になって行きました。
『Gメン’75』も『特捜最前線』も『西部警察』も、歴史に名を残す番組はどれも、基本的な枠組みは守りつつ新しいアレンジを考案し、突き詰めていく探求心や冒険心を持ってました。
ただし、やり過ぎるとダメなんです。例えば勝新太郎さんの『警視ーK』は探求心や冒険心があり過ぎて、枠組みを破壊しちゃったが故に失敗しました。石原プロの『ゴリラ/警視庁捜査第8班』は最初から枠を取っ払い過ぎたのが敗因の1つだと思うし、近作だとクドカンさんの『うぬぼれ刑事』は完全に刑事ドラマのルールを無視して私の逆鱗に触れましたw
枠やルールを無視したり壊したりすれば、そりゃ個性的な作品にはなるでしょう。だけどそれって、私に言わせりゃ安易だし、ズルいやり方です。ただの手抜きです。そんなのは最初だけ新鮮に感じてもすぐに飽きちゃいます。
『あぶない刑事』が大ヒットした理由は様々あるかと思いますが、私がとても好きだったのは、この番組はハチャメチャな様に見えても、決して刑事ドラマのセオリーは無視しなかった事です。遊ぶにしても『あぶデカ』はちゃんとルールの範囲内で遊んでました。まぁ、ギリギリでしたけどw 枠を壊しちゃう限界スレスレの所で遊んでる感じこそが、このドラマ最大の魅力であり面白さだったと、私は思います。
だから「あぶない」んですよね。その一線を越えそうで越えないスリルこそが楽しい。もし越えちゃったら、そいつはただの「ガイキチ刑事」になっちゃいますw
第1シリーズの最終回、犯人が幽霊だった事が判明した辺りで、残念ながら『あぶデカ』も一線を越えちゃった感があります。
そして2本の劇場映画を挟んで再開したテレビ第2シリーズ『もっとあぶない刑事』は、一線を越えたまま「あっちの世界にいっちゃった」ドラマになってました。芸者のコスプレで警察署に出勤し、奇声を発して騒ぎまくる浅野温子さんの姿など、まさにガイキチ刑事そのものです。
『もっとあぶない刑事』は1988年の10月から翌年3月まで、日本テレビ系列で金曜夜8時=『太陽にほえろ!』『ジャングル』『NEWジャングル』と続いた伝統の刑事ドラマ枠にて全25話が放映されました。制作は前作に引き続きセントラル・アーツ&東映。
舘ひろし&柴田恭兵はもちろん、レギュラーキャストの入れ替えや補強は一切無く、オープニングも前作のまんまで、エンディングは曲だけ変わったものの映像はそのままという、大ヒット番組の余裕なのか知らないけど「さりげなく再開しま~す」ってな軽やかさが、らしいと言えばらしいです。
だけど初回を観た時に、私はすごく違和感を覚えました。確かにこれは『あぶデカ』なんだけど、私が好きだった『あぶデカ』とはちょっと違うぞと。「軽いノリ」がエスカレートして「悪ふざけ」の領域に入ってしまい、せっかくのハイクオリティーなアクションシーンから緊張感が無くなってるように感じました。
例えば上記の通り、浅野温子さんが現実じゃ有り得ないコスプレをエスカレートさせてキャラクターが崩壊し、他のメンバー達も負けじと「ウケ狙い」を競うようになり、全編に笑えないギャグが蔓延するようになっちゃった。
第1シリーズの記事に書きましたけど、軽いノリがサマになるのは恭兵さんだけなんです。恭兵さんが中心になってやってる分には良いんだけど、あまり笑いのセンスが無いキャストまでウケ狙いを始めちゃうと、私は観てて「寒い」「痛い」と感じてしまう。
最近のインタビューで恭兵さんは「痛々しい部分も含めて楽しんでもらえれば」みたいな事を仰ってたけど、視聴者はそんなに甘くないです。うるさいんです、少なくとも私はw 番組自体が最初からダサければ「スベり芸」と割り切って楽しむ事も出来るけど、『あぶない刑事』がダサかったりベタだったりするのは駄目でしょう?
そこには眼をつむったとしても、世界観がユルくなり過ぎて「何でもあり」になっちゃうと、刑事ドラマはお終いだと私は思ってます。
例えば爆弾が目の前で爆発して瓦礫の下敷きになっても、口から小麦粉を吹きながら這い出て来て「死ぬかと思った!」の一言でチャンチャン!って、ドリフのコントみたいな事までやっちゃったら、もう『あぶデカ』の世界だと爆弾が死の恐怖に繋がらなくなってしまう。
『うぬぼれ刑事』でも、毒を飲まされた主人公がケロッと生き返ったりしてました。死なない理由は「主人公だから」みたいな事を言ってたように記憶します。クドカンさんのファンは、そういう子供じみた笑いこそが好きで観てるんでしょうから、刑事ドラマとして破綻してようが関係無いのかも知れません。だからまぁ『うぬぼれ刑事』はそれで良いです。勝手にやってて下さい。
だけど『あぶない刑事』には、そんな低レベルな事はやって欲しくないんです。笑いを取るのも良いけど、それ以前に『あぶデカ』はアクションドラマでしょう? 格好良い2人の、格好良いアクションを見せる為の番組だった筈です。緊張感の無いアクションは、ちっとも格好良くありません。そんなのは子供の遊びと一緒ですから。アクション物は絶対「何でもあり」になっちゃ駄目なんです。
『あぶない刑事』に『もっと』っていう冠をつける以上は、前作よりも更に「軽さ」や「自由さ」をエスカレートさせなきゃいけないって、創り手の人達は考えておられたのかも知れません。
だけど、越えちゃいけない一線を「越えるか越えないか」のスレスレな感じこそが「あぶない」魅力だった筈なのに、越えちゃったらもう、それは別物です。ガイキチ刑事です。「あぶない」の意味が変わっちゃう。
まぁ、我ながら口うるさい客やなぁって思いますw だけど人それぞれ「これだけは譲れない」っていう、こだわり所はありますよね? 私の場合は以上のような事が、とっても重要だったりするワケです。
私にとって『ベイシティ刑事』と『あいつがトラブル』が良くて『あきれた刑事』と『ゴリラ』が駄目だった理由、その線引きも、根本的には同じような事です。賛同してくれる方、おられますでしょうか? 私だけなんでしょうか?
そんなワケで、私の中での『あぶない刑事』は、テレビの第1シリーズから劇場版の第2作『またまたあぶない刑事』まで。『もっとあぶない刑事』以降の『あぶデカ』は(劇場版最終作『さらばあぶない刑事』のみ例外として)同じキャスト&スタッフによるパロディーだと認識してます。
ゴリラは個人的に好きです。神田さんが出演してなければ面白くないですね。