古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『手を合わせる』気持ちを大事にして生きます。

2012年01月18日 03時48分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 我が家の裏山の西にある福地池に、いま冬の鳥が飛来しています。散歩で見かけても遠くてよくわからないのですが、道子さんによると『キンクロハジロ』だそうです。写真は5倍ズームにして撮り、トリミングして拡大したのではっきりしません。うちの畑の前には「狩猟はご遠慮ください」と立て看板があり、この一帯は禁猟区になっています。「石を投げたりおどしたりしないから、もっと近寄って仲良しになりましょうよ。キンクロハジロくん!」
 2012年1月5日、今年の最初のブログで、孫のババヌキゲームのことにふれ、「初詣では近くの神社ですませて伽耶院にお参りしなかった」と書いたら、伽耶院行者堂の菜根行者さまからこんなコメントをいただきました。


 何より神仏は、神社仏閣にのみおわすわけではありません。山でも里でも、どこで手を合わそうともその手の向こうにあなた様の心を感じ取って、ともに悩んだり喜んだり笑ったりして下さる神や仏があるのではないでしょうか。


 田舎暮らしをはじめる前は、30年近く須磨のニュータウンに住んでいました。定年退職してからは散歩が日課の一部になり、毎朝ニュータウンを歩きまわりました。ちょっと空き地があると年々家が建っていきました。散歩をはじめた頃は公園に仮設住宅が残っており、「この住宅がなくなるときがくるだろうか」と思ったりしましたが、いつの間にか元の公園に戻りました。
 前にもこのブログに書いたことがありますが、須磨ニュータウンは快適な街です。計画的な街づくりが行われ、ここで暮らす人々が永住したいと感じるほど、便利でしかも緑の豊かな街です。家を出て立体交差になった街路樹の豊かな散歩道を歩き、ひとつの信号も渡らずに1時間歩いて家に帰ってこれるようになっています。はじめて名谷に来た人は戸惑うでしょうが、車の道も立体交差になって混雑や渋滞が起こりにくくなっています。
 菜根行者さんのコメントを読んで気づきました。あの快適な街には、手を合わせるところがない。
 たしかにニュータウンにもお寺が建っています。教会もあります。しかしすべてが新しく、きれいで、昔から人々が生きてきた痕跡がない。お墓や祠や小さな社や神社がない。田舎暮らしをはじめて気づいたことです。行者さんのコメントを読んでそのことをあらためて思いました。
「手を合わせるところがない」ことくらい、たいしたことではない。そんな風潮が殺伐とした事件の背景にあるような気もします。東京の『日本橋』はすべての起点であり、由緒ある橋です。なのに頭の上は高架橋が圧し、何の風情もありません。日本中こんな風にモノをそしてココロを壊してしまって、いまや辛うじて田舎の祠に心が残っている。そんな気がして、祠の前を通るときは手を合わせることにしています。なにより自分のこころのために。
コメント
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