きのうの写真の風景をほめてもらい、ありがとうございます。
2006年の春3月、道子さんとぼくは不動産屋さんに案内してもらって、はじめていまの家の土地を見に来ました。春の陽射しがぽかぽかして、あたりの空気はのびやかでした。
家を建てるはずの土地を見てから、近辺を歩いてみました。100メートル足らず山のほうに上ると、まだ枯草色の田んぼが広がり、その向こうはゴルフ場になっていました。100メートルあまり下ると小さい池があり、枯木の木立ちにかこまれた村の墓地があり、枯草の繁った田んぼがありました。
春の陽射しがあたり、田んぼがあり、その向こうには田舎の景色がひろがる。その風景を写真に撮りました。「こんなところで一日のんびり畑仕事ができたらいいだろうな」
何の脈絡もなく不意にわき起こったその思いがいまは実現したかたちです。
それまで半年ほどぼくらは田舎暮らしをするための「空き家さがし」をしていました。何度も何度もブログに書きますが、北は福知山線の谷川駅付近から南は淡路島の一ノ宮町まで数十軒の田舎の空き家を見てまわりました。でも空き家さがしは疲れました。一日数軒の空き家を、自分が暮らすことを想像しながら見てまわると、くたくたでした。空き家ってなにかそんな疲れるエネルギーをもっている気がします。その家の歴史がもたらすものか。住んでいた人の人生の疲労がもたらすものか。
発想を転換したのは不動産屋さんの一言でした。「空き家といってもぴったりくる家はないもんです。それより家を建てたらどうですか」そして案内してもらった最初の土地に、家を建てました。小さい平屋の家です。年寄りは平屋がいい。二階建てはいけません。
歳をとってから、なんのつながりもない土地に落下傘のように舞い降りたのに「めぐまれた日々」と思って暮らしている。自分のしたことですが不思議な気がします。きっとなにか大いなるものの「みちびき」があるのでしょう。語ればいあふれるほどの思いはありますが、感謝するしかありません。
きのうの写真にコメントをいただき、返事のつもりで書きました。
2006年の春3月、道子さんとぼくは不動産屋さんに案内してもらって、はじめていまの家の土地を見に来ました。春の陽射しがぽかぽかして、あたりの空気はのびやかでした。
家を建てるはずの土地を見てから、近辺を歩いてみました。100メートル足らず山のほうに上ると、まだ枯草色の田んぼが広がり、その向こうはゴルフ場になっていました。100メートルあまり下ると小さい池があり、枯木の木立ちにかこまれた村の墓地があり、枯草の繁った田んぼがありました。
春の陽射しがあたり、田んぼがあり、その向こうには田舎の景色がひろがる。その風景を写真に撮りました。「こんなところで一日のんびり畑仕事ができたらいいだろうな」
何の脈絡もなく不意にわき起こったその思いがいまは実現したかたちです。
それまで半年ほどぼくらは田舎暮らしをするための「空き家さがし」をしていました。何度も何度もブログに書きますが、北は福知山線の谷川駅付近から南は淡路島の一ノ宮町まで数十軒の田舎の空き家を見てまわりました。でも空き家さがしは疲れました。一日数軒の空き家を、自分が暮らすことを想像しながら見てまわると、くたくたでした。空き家ってなにかそんな疲れるエネルギーをもっている気がします。その家の歴史がもたらすものか。住んでいた人の人生の疲労がもたらすものか。
発想を転換したのは不動産屋さんの一言でした。「空き家といってもぴったりくる家はないもんです。それより家を建てたらどうですか」そして案内してもらった最初の土地に、家を建てました。小さい平屋の家です。年寄りは平屋がいい。二階建てはいけません。
歳をとってから、なんのつながりもない土地に落下傘のように舞い降りたのに「めぐまれた日々」と思って暮らしている。自分のしたことですが不思議な気がします。きっとなにか大いなるものの「みちびき」があるのでしょう。語ればいあふれるほどの思いはありますが、感謝するしかありません。
きのうの写真にコメントをいただき、返事のつもりで書きました。