古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「隣百姓」という言葉

2022年12月25日 22時00分27秒 | 古希からの田舎暮らし
〈モンゴルへの思い〉/モンゴルへの旅行/大相撲の現状/朝青龍や日馬富士の追放/を思うと、いろいろ言いたいことが出てきます。しかしむかしのことです。「ふれないでそっとしておきます」。
 ただ『モンゴル力士はなぜ …… 』の本から一か所だけ引用します。読んでみてください。


 日本語のなかに「隣百姓」(となりびゃくしょう)ということばがある。「お隣が田植えを始めたら、うちも始める。隣近所をよく見て、遅れないように、その通り真似をするだけで、百姓仕事はやっていける。自分で何も考えなくても、理由は分からなくても、他人と同じことをしていれば、とりあえず何とかなる」という意味である。このことばは、いまではだいたい皮肉として、悪い意味で使うことが多いようだ。しかし、むかしの日本社会では、実際にこの言葉通りだったのである。
 隣近所が一斉に田植えをしなければ、農村社会は成立しなかった。田植えをするには、川から田んぼに水を引いてこなければならない。川に近い田んぼから田植えをしていかなければ、川から遠い田んぼの田植えはできない。
 だから、田植えの季節には、村中の人が一緒になって、川に近い田んぼからみんなで田植えをしていった。協調こそが、日本人が生きていく上での美徳となったのは、そのためである。  ……    (中略)
 このようなわけで、農村で稲作をして暮らす日本人にとって、一番怖いのは、仲間はずれになることだった。ご存知のように、「村八分」ということばは、村の秩序を乱した人間とその家族を、村中の人が仲間はずれにして、一切付き合わないという意味である。ただし、葬式と火事の二つだけが例外だったので、二分を引いて、八分絶交といったのだ。
   ……  (中略)
 だから、数を頼んで一人だけのけ者にするという「いじめ」が成立するのだ。どちらが正しいとか、理屈が通るかどうかはぜんぜん問題にせず、気に入らない人間を「ただ仲間はずれにする」という嫌がらせが成立するのは、日本の文化の特徴であると思う。日本人がいまでも、仲間はずれになることをひどく怖れるのは、このような伝統のせいだろうか。

 モンゴル人は、日本の村落のように、近所に何十人もがまとまって住むことはなかった。なぜなら、草のまばらな草原で集住すると自然の草場が荒れるからである。とくに草原に草が少ない春や、厳しい冬を乗り切るためになるべくたくさんの草を食べさせたい秋には、遊牧民たちは遠く離れたところに広がって暮らす。
 たくさんの家畜に十分な草を食べさせるためには、別の人間がすでに放牧したところに行ってはいけない。つまりモンゴルの放牧生活では、他人とはつねに違うことをしなければ生きていけなかったのである。日本の「隣百姓」とはまったく正反対の生き方であることがおわかりいただけるだろうか。

 
 


 

 
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