古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

褒美をもらったら働きます。

2022年12月15日 18時28分07秒 | 古希からの田舎暮らし
 とても寒い朝です。氷が張っています。こんな日は〈たき火〉〈焼き芋〉にかぎります。午前中はたき火をしました。新しいダッチオープンをたき火から持ち上げるのは、気合を入れて全力でやります。来年はこれができるかなあ。
 13,14日と〈天橋立・蟹の旅〉=〈自分で自分にご褒美〉をもらったので、午後は張り切って働きました。
 日曜日は/移住してきた六軒のみなさん/看護ステーションの方/畑を作りに来ている方/で道路掃除をします。「年末の団地清掃」です。今日は、清掃がしやすいように、下準備をしました。電動の草刈り機で道路側面の笹や草を刈り、道路の路面にたまっている土をほぐしました。
 草刈り機についているバッテリーは15分が2個、あとで買い足したバッテリーは30分で2個。全部のバッテリーを使い切り、90分の作業でした。

 これで日曜日の作業がしやすくなります。
 それまでに雨が降らなければいいのですが。〈ぬれ落ち葉〉になると手間がかかります。

 年賀状を買ったのですが、まだ何もしていません。文案も写真もきめてません。ぼくはこの世にいる間は年賀状を出しつづける気です。また考えます。

  
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『戦艦大和・日記』読了

2022年12月15日 04時02分10秒 | 古希からの田舎暮らし
 11月9日ブログに書いた『戦艦大和・日記』(全5巻)を読みおわりました。
 この本の縦糸は〈海軍大佐・水野廣徳〉です。こんな人が日本にいたことを、はじめて知りました。
 水野廣徳は「満州事変から昭和20年8月の敗戦まで」に起こることを、渾身の力をこめて訴えました。悲しいことですが、それは正確な予言となりました。「何とかして、日本の悲惨な運命を回避させよう」と水野廣徳は、東奔西走して、軍の関係者にぶつかりました。
 いつも特高警察に尾行され、書いて出版するものは、即日〈発禁処分〉になって封じられました。
 早坂暁は、この〈水野廣徳〉を軸にこの作品を書き上げました。ぼくらが読めるのは、昭和16年10月10日までですけど。早坂の筆の力で、時間をワープして歴史の場面を見ることができます。
 一か所だけ引用してみます。


 ※ 昭和16年8月15日  日本が戦争に突入する直前です。
 近衛首相とルーズベルト大統領の頂上会談に、それこそ蜘蛛の糸のような望みをつなぎながら、開戦へのスケジュールがけが確実に刻まれていく。
 ところが、第二回御前会議の前日、天皇から開戦準備の中止かと思われる強烈な御下問が炸裂するのだ。このくだりは同席していた近衛首相が詳しく手記に残しているので、ぜひ紹介したい。
 呼びつけられたのは、陸軍の杉山参謀総長、海軍の永野軍令部総長の二人、つまり戦争を実行する場合の最高の責任者だ。
 それというのも、開戦を望んでいない天皇は、日米交渉という外交努力が、開戦準備の陰にかくれていくのが、我慢ならなかったようである。

天皇 「日米に事が起これば、陸軍としてはどれくらいの期間で片附ける確信があるのか?」
杉山参謀総長 「南方方面だけは、三ヶ月で片附けるつもりであります」
天皇 「杉山は支那事変勃発当時の陸軍大臣だぞ。あの時、陸軍大臣として事変は一ヶ月くらいにて片附く、と言ったように私は記憶している。しかしながら、四年の長きにわたり、まだ片附いていないではないか」
杉山 「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がうまくいかなかったのであります」
天皇 「なに? 支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって三ヶ月と申すのか」
 杉山参謀総長は、頭を下げたまま、答えられない状態になるが、見かねた海軍の永野軍令部総長が助け舟をだす。
永野軍令部総長 「統帥部として、大局より申しあげます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術しないでこのままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常に危険があるが、助かる望みもないではない。統帥部としては、あくまでも外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、手術をしなければならんと存じます」
 残念にも、天皇はこんな訳のわからない助け舟でごまかされてしまうのだ。
「大本営機密日誌」にはこう書いてある。
『 …… 南方戦争に関し種々御下問二時間にわたり、両総長は退下した。一時は参謀本部内の空気は(天皇の猛反対に)サッと緊張したが、御前会議は、両総長の奉答により御嘉納あったようで、一同安堵した』
 この日記、日誌で、幕僚たちの、いわゆる ”輔弼” ”助言” というものの実体がよく分かるではないか。 

 
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