古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

草と虫の季節です。

2011年08月08日 05時20分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 写真では小豆のまわりに張った青い防風ネットが右手前方に見えます。画面中央は南側の土手の畦で、左が土手、右が遊歩道です。虫のスミカをなくそうと畦と遊歩道の草を刈りました。草は一日で乾きますから、きのう全部集めて燃やしました。数日は虫が土手の下の草むらに避難し、その間に作物は生長するでしょう。蛙くんには作物に陣取るか草むらに入るかして、虫を食べてもらいましょう。
 月2回の草刈りはここまでとします。土手も刈ればいいでしょうが、オーバーワークになります。土手の斜面は月一回にします。大豆や黒豆の花が咲きはじめました。水が必要です。42ミリホースで畝間潅水をします。去年はいま頃全体に水を流して畝間潅水をしましたが、今年はちょっと夕立があったりして、ホースで畝間に流すだけでいけそうです。
 去年はまったくできなかったサツマイモみたいな『シモン一号』(カイアポ芋という商品名で売られています)を、今年はつくりませんでした。一度つくると7年はつくれないほど養分を吸い取るそうですし、そんなにおいしい芋ではありませんので。去年失敗したヤーコンは、今年はすくすく育っています。南米原産で寒さに強い芋ですので涼しくなれば勢いが出てくるでしょう。
 今年はコンニャク芋は植え付けませんでした。去年つくった四年目の大きな芋は冬中放置したままでした。「コンニャクが好き」というより「コンニャクをつくってみたい」という好奇心でつくっていたのだ、と悟りました。でもコンニャクは10本ほど生えています。掘り残した芋でしょう。これはそのまま育てることにします。
 落花生の株が大きくなりました。今年は『ジャンボ落花生』の苗を5株買って植えました。一株400円と高価でしたが。葉っぱはふつうの落花生より大きく、実も大きくなりそうです。ジャンボ落花生は干さないで塩茹でして食べる「枝豆」に人気があるそうです。
 でも他の100株近い落花生を見ると、「ジャンボ」と同じくらい大きな葉っぱの苗がかなりあります。
 思い出しました。去年はジャンボ落花生の「タネ」を買って20本ほど植え付けました。そして去年収穫した粒のうち、なるべく大きめの粒を選ってポット苗をつくりました。だからふつうの落花生と思って植えた中にジャンボが混じっているのです。去年は「猪が出る!」と聞いて、9月終りに一部を慌てて抜いてしまいました。殻が出来てこれから実が入るというところでした。今年はじっくり待って収穫します。猪は出るかどうかわからんし、食べられても全滅ということはないでしょう。ゴマは順調! 道子さんは、ホクホクして世話しています。
 
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遊歩道の草刈りをしました。

2011年08月06日 02時53分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 遊歩道脇のサツマイモのうねは、写真のように葉っぱが穴だらけになっています。バッタやコオロギが食べているのでしょうか。畑の中のほうのサツマイモはこんなに食べられていません。
 サツマイモはいまいちばん元気よくツルが伸びているときですから、葉っぱが食べられても大丈夫です。それでもこんなに虫を養うことはよくありません。蛙くんの食料を奪うようだけど、ここは草刈りをしてムシのスミカを一掃しようと、きのうは草刈りに精を出しました。
 土手の上の畦を刈り、内側の遊歩道を刈るのは、一日仕事でした。晴れた日なら朝刈った草は夕方には集めて燃やせるのですが、きのうはくもりだったのでそのまま干しておきました。きょう燃やします。
 ところで小豆のムシ防除のために張った青い防風ネットですが、通りかかる村の人も気になるようです。きのう土手に上がってこられた方に説明したら、「効果があるといいですね」といわれました。「そんなモンが効果あるなら百姓は苦労せんわな」とはいわれなかったけど、そんな内心の声が聞えたような気がしました。ぼくらのひがみでしょうね。
 しかしせっかく張ったのですからネットをときどき見てまわります。いろんなムシがネットに止まっています。まずその高さを見ます。150センチまでくらいならよし。次にムシの種類。バッタやクモならそのままにしますが、蛾は要注意です。でもアズキノメイガはまだ見つかりません。いちばん発生する時期は7月下旬 ~ 8月と害虫の説明に書いてありますからいまが正念場です。さー、シャットアウトできるか。
 ところで7月6日のブログに書いた『ピンクタイガー』くんですが、孔があいたらしくしぼんでしまいました。そこで連れてかえってお風呂に入れて孔を確かめ、テープを貼って治療しました。                       
 お腹のところが治療跡です。タイガーの色を見てください。7月6日の写真ではピンクだったのにいまではホンモノのトラ色になっています。もしあの「ピンクが紫外線に当たるとこう変化する」と計算してあの製品をつくったのならすごい。
 トラくんが守ってくれたお陰で、一つ目のスイカはおいしくいただきました。きょう二個目を切ってみます。まだ5個はとれそうだし。でも山向こうの細川町では今年5匹目のアライグマを捕まえたんですって。メダカ庵のブログに書いてありました。タイガーくんの健闘に期待しましょう。
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早朝の農作業で畑仕事がはかどります。

2011年08月05日 02時32分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 夏の農作業は早朝がいいです。朝6時までに畑に出て、8時か9時まで仕事をします。日は昇っていますが、空気はまだひんやりしています。きのうは小豆防虫対策をしました。
 青いネットは、先日のブログでもふれましたが、4ミリの防風ネットです。幅2メートル長さ50メートルのネットを購入して、30メートル余り使ったでしょうか。まず小豆の2うね(幅1,2メートル長さ11メートル)のまわりに高さ195センチの竹の棒を10本立てます。(木の杭を打ち込んで竹の棒をビス止めします)その竹の柱に針金(18番線)を渡していきます。一番上が195センチ、次は地上から130センチ、下は60センチの高さにします。風が吹いてネットがふくらんでもこの針金がストッパーになります。ここまでは先日作業が完了しています。
 さてネットを針金にどう止めるか。思案しました。
○ 《ヒモでところどころネットを針金にくくりつける》 …… 100本もヒモを通してくくるのは相当時間がかかり、面倒な気がします。
○ 《ホチキスでネットを針金に止める》 …… はずすときネットが破れそうです。
○ 《ガチャックでネットを針金に止める》 …… ガチャックならホチキスよりはずすのが簡単でネットを傷めることもなさそうです。ガチャック(中)は二つも文具の箱にありますし、ガチャ玉も未使用の箱があります。孫の大志くんがおもちゃにして遊んだことがありますが、最近は見向きもしなくなりました。
 それを持って出て、ネットを針金に止めてみるとなかなかいい。30センチおきくらいにガチャ玉で柱間8箇所止め、それをカーテンのように引っ張って柱に止めていくと、すぐに一周できました。中段と下段の針金には柱間2箇所ずつ止めました。中に入ってみましたが防虫ネットを張ったような閉塞感はありません。もっとも天井ネットはなしですから当然かも。
 さて小豆の大敵《アズキノメイガ》くんは地上120センチまでのところを飛ぶと書いてある本を信頼して、このネットを張ったのですが結果はどうなりますか。害虫のことをネットで見ると「小豆はスミチオンだかオルトランだかを使わないと全滅。無農薬は不可能」と書いてあります。天井にもネットを張れば侵入を阻止できるかもしれませんが、空気がこもる心配があります。写真の4ミリの防風ネットでは思ったより開放感があり、ネットの向うの軽トラもよく見えています。このネットは防風で、防虫ではありませんから効き目が気になります。
 そうそう、先日コープ瑞穂農園に行き、堆肥を軽トラいっぱいもらってきました。塗装コンパネ四枚で枠をつくっていますが、今回はそれを使用しませんでした。小屋の天井から重いコンパネを下ろし、軽トラの荷台にとりつけるのがしんどくなりました。それで12畳敷きのブルーシートを荷台に敷き、そこにパワーシャベルで堆肥を落としてもらい、はみ出し分をスコップで入れて、シートをガムテープで止めて持ち帰りました。毎年2回堆肥をもらいますが、これから枠は使用しないことにします。
 きのうは藤原ポートリーファームの鶏糞を10袋もらいました。先日は5袋もらいましたが、コイモに2袋、他の追肥ですぐに使ってしまい、秋野菜や追肥のために買いました。ここの鶏糞は窒素がほとんどなく、燐が多く、サラサラして使いやすい。食品残滓を醗酵させたコープ堆肥と赤玉のアンの鶏糞を愛用して、おいしい作物づくりをめざします。
 
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出久根達郎のエッセイから。

2011年08月02日 04時07分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家の便所には小さな本棚が壁につくってあり、幾冊か本が置いてあります。そして気が向けば本を手にとって、数ページ読むことがあります。出久根達郎(作家)の『残りのひとくち』という本からエッセイをひとつ写します。

                  母の手紙

 土子隆輝(つちこたかき)は古い友人で、お互いに、毎日中学生新聞に作文を投稿していて知りあった。
 中学を卒業すると私は上京した。土子は大学入学で、三年後、東京に出てきた。その時初めて会った。それまで手紙のやりとりだけだった。
 彼は筑波山麓の、旧家のひとり息子であった。同い年の私たちはたちまち意気投合し、しょっちゅう往き来していたが、ある日、彼の下宿で雑談中に郵便小包みが届いた。彼の母上が息子に送ってきたのである。衣類であった。
 ところが衣類に包まれて、タバコが十数個出てきた。隠すように入れられてあった。
「なんだ。また送ってきた」土子が照れたように言い、いくつか私にお裾分けしてくれた。
 私が感動したのは、息子にタバコをすすめる母の愛情であった。息子はまだ未成年なのである。
 良い悪いというより、子供の嗜好に理解を示す母の姿が、私にはうらやましかったのだ。
 私の母は、およそ息子に関心を持たなかった。十五歳の少年が、ひとりで都会生活をしているというのに、元気か、の手紙さえ寄越さない。つめたい親だ、とうらんでいたのである。そんなだから正月も家に帰りたいと思わなかった。
 土子が気の毒がって、わが家で過ごさないか、と誘ってくれた。私は喜んで応じた。
 土子の実家は、呉服や洋品や化粧品などを商っていた。手広く商売していて、だから正月は、いわゆる書き入れ時であり、遊びにこられると迷惑に違いなかった。
 しかし母堂は、いささかもいやな顔をせず、あたたかく迎えてくれた。店番のあいまをみては、ごちそうをこしらえてくれ、正月は特別だから、と未成年に酒を強い、タバコをふるまってくれた。もっとも私たちはこの二つは、大っぴらにやっていた。
 一泊し、私は満足して帰京した。すぐに母堂に礼状を認(したた)めた。折り返し、手紙をいただいた。「何のおもてなしも出来ず、たった一晩でお返(ママ)ししてしまい、誠に恐縮に存しておりましたのに、ご丁重な御礼状をいただき……」とあり、続いて、
「喬輝もご承知の通り一人っ子でわがまま者です。苦労知らずに育ったため全くの世間知らずで、貴兄様から見たらホンの子供で、本当におはずかしい次第です。世の中の甘い、からい、すっぱいの味も何一つ知らず、甘っちょろい世の中のチョッピリしか知らぬ人間です。どうぞ先輩の社会人として、よろしくご指導の程くれぐれもお願い申し上げます。二十五日から来月六日頃まで試験の由、最善をつくしてもらいたいと、親の方は一生懸命ですが、親の心子知らずでまことに困ります。ではまたいらっしゃいね。向寒の折柄、十分お体をお大切に。」
 昭和三十八年一月十七日、土子裕子とある。
 私は一読、落涙した。世間知らずの、ホンの子供は、私であった。世の中の甘い部分しか見ていない人間は、この私であった。
 私は実の母親から言われたように、シュン、となった。心地よい、しょげ方だった。肉親の、このような言葉に飢えていたのである。母堂の手紙は大切に保存した。
 確か私の母とおっつかっつの年ではなかったか、と思う。一昨年、亡くなられた。その報を聞いた時、三十数年前の手紙を取り出して、読み返した。手紙のありがたさは、筆跡と文章に故人が生きていることであった。読めば、いつでも故人の声が聞けることであった。
 昨年、私の母が天寿をまっとうした。遺品を整理していたら、「タカラハコ」とたどたどしく記された小箱から、十五歳の私が母に宛てた手紙が現われた。上京して、まもないころ書いた手紙である。なぜ手紙をくれぬか、と母をなじっている。
 実はその後わかったのだが、私の母は全く文字を知らない人だったのだ。息子に責められて、どんなに、せつなかったろう。
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