小説『薔薇の名前』は、1986年にジャン=ジャック・アノー監督によって
映画化されています。
見習修道士"アドソ"をクリスチャン・スレーターが、
師である"バスカヴィルのウィリアム"をショーン・コネリーが演じています。
小説が映画化されることは別に普通のことですが、
「原作」と「加工されたもの」(映画化、舞台化されたもの)は本来全くの別物です。
比較して"ああだ、こうだ"言うべきではないですし、
そもそも「原作」を超えることなんて不可能でしょうから。
どちらも同時に手に取ることができる状態にあれば、やはりまず「原作」に目を通します。
映像化されたものを観て、変な先入観を持たないように。
ですが今回、『薔薇の名前』は映画を先に観ました。結果それがよかったです。
建物(修道院)や特徴的な登場人物などがある程度イメージできたおかげで、
この物語はずっと読みやすくなったと思います。
もともと翻訳物は苦手で(名前が覚えられない、風景がイメージできない等々)、
その上、中世キリスト教世界ともなれば、普通に読んだらまず"玉砕"でした。
個人的には、原作のミステリー的な部分を強調したように感じました。
もっとも、記号的側面、「書物のための書物」といった側面は、
文字通り書物だからこそできるわけで、それを映像化するのは困難でしょうが。
それにしても、この映像!(映像美とはいいません)
建造物からセットから、登場人物達の"異様"な姿まで!
これだけでも観る価値、観た甲斐があります。
異端審問官ベルナール・ギー役のF・マーレー・エイブラハムは
『アマデウス』でサリエリを演じた方です。
原作とは違い、異端審問官ギーは最後に自身が"裁き"を受けますが、
これは映画的なカタルシスとなっています。
そんな中、"バスカヴィルのウィリアム"役のショーン・コネリーだけが
宗派の違いというだけでなく、どこか"現代の人"のような違和感を受けます。
でもその違和感も当然のこと、意図したことなのかもしれません。
修道僧として神に仕える身でありながら、彼(バスカヴィルのウィリアム)は
別の「神」、知識という名の神に仕えている・・・そう見えますので。
映画化されています。
見習修道士"アドソ"をクリスチャン・スレーターが、
師である"バスカヴィルのウィリアム"をショーン・コネリーが演じています。
小説が映画化されることは別に普通のことですが、
「原作」と「加工されたもの」(映画化、舞台化されたもの)は本来全くの別物です。
比較して"ああだ、こうだ"言うべきではないですし、
そもそも「原作」を超えることなんて不可能でしょうから。
どちらも同時に手に取ることができる状態にあれば、やはりまず「原作」に目を通します。
映像化されたものを観て、変な先入観を持たないように。
ですが今回、『薔薇の名前』は映画を先に観ました。結果それがよかったです。
建物(修道院)や特徴的な登場人物などがある程度イメージできたおかげで、
この物語はずっと読みやすくなったと思います。
もともと翻訳物は苦手で(名前が覚えられない、風景がイメージできない等々)、
その上、中世キリスト教世界ともなれば、普通に読んだらまず"玉砕"でした。
個人的には、原作のミステリー的な部分を強調したように感じました。
もっとも、記号的側面、「書物のための書物」といった側面は、
文字通り書物だからこそできるわけで、それを映像化するのは困難でしょうが。
それにしても、この映像!(映像美とはいいません)
建造物からセットから、登場人物達の"異様"な姿まで!
これだけでも観る価値、観た甲斐があります。
異端審問官ベルナール・ギー役のF・マーレー・エイブラハムは
『アマデウス』でサリエリを演じた方です。
原作とは違い、異端審問官ギーは最後に自身が"裁き"を受けますが、
これは映画的なカタルシスとなっています。
そんな中、"バスカヴィルのウィリアム"役のショーン・コネリーだけが
宗派の違いというだけでなく、どこか"現代の人"のような違和感を受けます。
でもその違和感も当然のこと、意図したことなのかもしれません。
修道僧として神に仕える身でありながら、彼(バスカヴィルのウィリアム)は
別の「神」、知識という名の神に仕えている・・・そう見えますので。