頼りなげなえんどう豆の花でした。
数日すると、豆の赤ちゃんになっていました。
「ふわふわから、ぴょんと生まれる」というタイトルにしました。
今日のテーマは、「替わりのもの」です。
携帯電話が充電できなくなりました。
充電器を差したまま(電源から電気を補充)なら使えます。
ちょっと困りました。
手数はかかるが、手紙を書けば良い。
以前、予備として持っていたバッテリーを探しました。
探すこと一時間。ありませんでした。
こんなことが、よくあります。
使わない道具やものがたくさんあります。
探し物をする時に邪魔をします。
無くても良い物ばかりと言ってもよい。
捨てよう。と思います。
命以外なら、替わりのものは何とかなるように思います。
思い出だって、新たに作れば良い。
何々が無ければ困る。
一時的には困りますが、替わりのものでなんとかなります。
そして、困ったことさえ忘れてしまいます。
忘れることが怖かった。
記憶の壺は、常に満杯状態です。
人の名が、物の名が思い出せない。
そのための替わりのものがあります。
状況を記し、インターネットで検索します。
スマホに、知りたいことを叫びます。
記憶を共有する仲間や家族に尋ねます。
知りたい情報が出てくるのです。
だから、心配ない。
病気になるのも怖い。
仲違いも怖い。
病気は、医者に相談して善処はしてもらえる。
仲違いは、誠心誠意を尽くし修復する。
そのままということはありません。
「替わり」ではないが、「変り」のようなもの。
酒がなければ、ギャンブルがなければ、彼女がいなければ
(飲む打つ買うの嗜好)となると、世も破滅のように思います。
これも何とかなりそうです。
甘い物、仕事、出家と替わりがありそうです。
カフェで、家庭で毎日生ゴミが出ます。
澱粉、魚や果物の切れ端が出た時は、ちょっと嬉しい。
コンポストとして、栄養価が高く、良い肥料になるからです。
多くのものが、なんとかなる。
替わりのものでなんとかなる。
こう考えれば、生きていけそうです。
生きていれば、贅肉は付くものです。
気づいてまた落とせばよい。
替わりのものが探せなくなると、これは辛い。
まだ、経験したことがない認知症や末期癌などがそうです。
どうしましょう。
死んだ子の 歳を数えて 月眺む
2017年9月21日