元ラーメン屋店主のツイート集

ラーメン屋を10年経営し、今は閉店し、介護士をしています。

画家を目指した学生時代

2005年02月13日 | 店主の人生哲学
 僕は、幼少期から絵を描いたり、粘土で色々作るのが
大好きでした。小学時代から皆と着眼点が異なり、
奇妙で大胆な作品ばかり作ってきたと思います。
 幼少期から絵では、沢山の賞を頂いたり、新聞に載ったり、
NEC主催の全国コンテストでも、NEC賞を受賞したりしていました。
ですから多少、絵には自信があり、図工、工作、美術が大好きな
科目でした。
 中学時代の美術教師は、僕の独特の感性を高評価してくれて、
創作意欲を高めてくれました。決して、批判・強制はしなく、
それぞれの個性を伸ばす素晴らしい教育だったと思います。
どんどん美術の世界に魅了され、あらゆるタッチを試したり、
画材を色々試したりしては、教師の温かい評価を受けました。
 ある日、その教師が「君には才能がある。貧乏生活をも
覚悟出来るのであれば、画家を目指しなさい。別の仕事をやる
にしても、絵は描き続けなさい。」と言われ、今も心に残っている
言葉だ。才能あるなんて、初めて言われ、それ以後も言われていない。
 中学3年ぐらいから、将来の夢は画家へと変わった。
繊細な絵では無く、大胆さと、哀愁こもった画風が売りだった。
もう、普通のクロッキー、模写、風景画、人物画は、飽きていて
デフォルメするスタイルが確立しだしてきた。水彩絵の具だけでは
表現出来なくなってきて、アクリル絵の具や、墨汁を頻繁に使い出した。
 美術教師も僕の進歩ぶりを喜んでくれ、教師宅にも招かれ、油絵を
習ったりしました。画家にとてつもない憧れが芽生え、絵を描く為に
生まれて来たと錯覚までしていました。
 中学時代は水泳部で3年間励みましたが、高校は美術部に入ると決めていた。
美術教師は学校に1人しかいなく、3年間僕と美術教師のバトルが続いた。
美術部で最初の活動は、グラデーションやら、配色(○色6割+○色4割=○色)
の勉強だった。毎日、物理的、理論的、技術的な美術学にウンザリし1か月で
退部した。絵に決まり事や、答えを導き出す教育は無意味であり、芸術とは
偶然、奇跡の産物だと思う。どうしても描きたい押さえられぬ感情を
描けばいいだけで、色だって偶然的に生まれる物でいいと思う。
 しかし、高校の美術教師は僕を目の仇にした。授業は与えられたテーマに
従い描かなければいけないが、描き方は自由だと思っていたが教師は許さなかった。
僕が指や手の平に絵の具をつけ絵の色付けしたり、コーヒーでセピアカラーに染めたり、
布、割り箸等で描いたり一切認めなかった。僕のやり方を否定してくると、
こっちもムキになりコラージュ、貼り絵などテーマに反れた作品を提出した
りした。毎回、作品再提出を言い渡された。
 淡い色を出すため、画用紙を水で濡らし、薄い色の水彩絵の具を散らし提出した
際も、「うちの学校では、ポスターカラーで描くように決まってるだろ!
貧弱な女々しい絵なんか描くな!再提出!」である。
 通知表で2だった際には、抗議しに行った。明らかに個人的感情から、生徒の
評価している態度が気に食わなかった。
抗議したら、教師は「お前が絵を描ける
能力あるのは認めよう。しかし、授業で技術のひけらかしや、
目立とうとする姿勢は、うっとおしい」と言って来た。
 型にはまった、決まりきった退屈な絵を描くのが、美術だと思っている
教師に失望した。その教師が文化祭で出展した作品を見たが、
全く持って面白みが無く、誤魔化しが多い画風だった。
絵1枚の中に集中力が分散され、細かい部分は丁寧だが、全体的に雑だった。
 高校3年間で画家を目指すプライドは、ズタズタにされ、絵を描くたび
思い出す教師の嫌味から、しだいに画家への夢が薄れてきた
 でも、決まり、枠、ルールなどにとらわれず、創作する姿勢はラーメン
へと受け継がれていると思います。