僕は、幼少期から絵を描いたり、粘土で色々作るのが
大好きでした。小学時代から皆と着眼点が異なり、
奇妙で大胆な作品ばかり作ってきたと思います。
幼少期から絵では、沢山の賞を頂いたり、新聞に載ったり、
NEC主催の全国コンテストでも、NEC賞を受賞したりしていました。
ですから多少、絵には自信があり、図工、工作、美術が大好きな
科目でした。
中学時代の美術教師は、僕の独特の感性を高評価してくれて、
創作意欲を高めてくれました。決して、批判・強制はしなく、
それぞれの個性を伸ばす素晴らしい教育だったと思います。
どんどん美術の世界に魅了され、あらゆるタッチを試したり、
画材を色々試したりしては、教師の温かい評価を受けました。
ある日、その教師が「君には才能がある。貧乏生活をも
覚悟出来るのであれば、画家を目指しなさい。別の仕事をやる
にしても、絵は描き続けなさい。」と言われ、今も心に残っている
言葉だ。才能あるなんて、初めて言われ、それ以後も言われていない。
中学3年ぐらいから、将来の夢は画家へと変わった。
繊細な絵では無く、大胆さと、哀愁こもった画風が売りだった。
もう、普通のクロッキー、模写、風景画、人物画は、飽きていて
デフォルメするスタイルが確立しだしてきた。水彩絵の具だけでは
表現出来なくなってきて、アクリル絵の具や、墨汁を頻繁に使い出した。
美術教師も僕の進歩ぶりを喜んでくれ、教師宅にも招かれ、油絵を
習ったりしました。画家にとてつもない憧れが芽生え、絵を描く為に
生まれて来たと錯覚までしていました。
中学時代は水泳部で3年間励みましたが、高校は美術部に入ると決めていた。
美術教師は学校に1人しかいなく、3年間僕と美術教師のバトルが続いた。
美術部で最初の活動は、グラデーションやら、配色(○色6割+○色4割=○色)
の勉強だった。毎日、物理的、理論的、技術的な美術学にウンザリし1か月で
退部した。絵に決まり事や、答えを導き出す教育は無意味であり、芸術とは
偶然、奇跡の産物だと思う。どうしても描きたい押さえられぬ感情を
描けばいいだけで、色だって偶然的に生まれる物でいいと思う。
しかし、高校の美術教師は僕を目の仇にした。授業は与えられたテーマに
従い描かなければいけないが、描き方は自由だと思っていたが教師は許さなかった。
僕が指や手の平に絵の具をつけ絵の色付けしたり、コーヒーでセピアカラーに染めたり、
布、割り箸等で描いたり一切認めなかった。僕のやり方を否定してくると、
こっちもムキになりコラージュ、貼り絵などテーマに反れた作品を提出した
りした。毎回、作品再提出を言い渡された。
淡い色を出すため、画用紙を水で濡らし、薄い色の水彩絵の具を散らし提出した
際も、「うちの学校では、ポスターカラーで描くように決まってるだろ!
貧弱な女々しい絵なんか描くな!再提出!」である。
通知表で2だった際には、抗議しに行った。明らかに個人的感情から、生徒の
評価している態度が気に食わなかった。
抗議したら、教師は「お前が絵を描ける
能力あるのは認めよう。しかし、授業で技術のひけらかしや、
目立とうとする姿勢は、うっとおしい」と言って来た。
型にはまった、決まりきった退屈な絵を描くのが、美術だと思っている
教師に失望した。その教師が文化祭で出展した作品を見たが、
全く持って面白みが無く、誤魔化しが多い画風だった。
絵1枚の中に集中力が分散され、細かい部分は丁寧だが、全体的に雑だった。
高校3年間で画家を目指すプライドは、ズタズタにされ、絵を描くたび
思い出す教師の嫌味から、しだいに画家への夢が薄れてきた
でも、決まり、枠、ルールなどにとらわれず、創作する姿勢はラーメン
へと受け継がれていると思います。
大好きでした。小学時代から皆と着眼点が異なり、
奇妙で大胆な作品ばかり作ってきたと思います。
幼少期から絵では、沢山の賞を頂いたり、新聞に載ったり、
NEC主催の全国コンテストでも、NEC賞を受賞したりしていました。
ですから多少、絵には自信があり、図工、工作、美術が大好きな
科目でした。
中学時代の美術教師は、僕の独特の感性を高評価してくれて、
創作意欲を高めてくれました。決して、批判・強制はしなく、
それぞれの個性を伸ばす素晴らしい教育だったと思います。
どんどん美術の世界に魅了され、あらゆるタッチを試したり、
画材を色々試したりしては、教師の温かい評価を受けました。
ある日、その教師が「君には才能がある。貧乏生活をも
覚悟出来るのであれば、画家を目指しなさい。別の仕事をやる
にしても、絵は描き続けなさい。」と言われ、今も心に残っている
言葉だ。才能あるなんて、初めて言われ、それ以後も言われていない。
中学3年ぐらいから、将来の夢は画家へと変わった。
繊細な絵では無く、大胆さと、哀愁こもった画風が売りだった。
もう、普通のクロッキー、模写、風景画、人物画は、飽きていて
デフォルメするスタイルが確立しだしてきた。水彩絵の具だけでは
表現出来なくなってきて、アクリル絵の具や、墨汁を頻繁に使い出した。
美術教師も僕の進歩ぶりを喜んでくれ、教師宅にも招かれ、油絵を
習ったりしました。画家にとてつもない憧れが芽生え、絵を描く為に
生まれて来たと錯覚までしていました。
中学時代は水泳部で3年間励みましたが、高校は美術部に入ると決めていた。
美術教師は学校に1人しかいなく、3年間僕と美術教師のバトルが続いた。
美術部で最初の活動は、グラデーションやら、配色(○色6割+○色4割=○色)
の勉強だった。毎日、物理的、理論的、技術的な美術学にウンザリし1か月で
退部した。絵に決まり事や、答えを導き出す教育は無意味であり、芸術とは
偶然、奇跡の産物だと思う。どうしても描きたい押さえられぬ感情を
描けばいいだけで、色だって偶然的に生まれる物でいいと思う。
しかし、高校の美術教師は僕を目の仇にした。授業は与えられたテーマに
従い描かなければいけないが、描き方は自由だと思っていたが教師は許さなかった。
僕が指や手の平に絵の具をつけ絵の色付けしたり、コーヒーでセピアカラーに染めたり、
布、割り箸等で描いたり一切認めなかった。僕のやり方を否定してくると、
こっちもムキになりコラージュ、貼り絵などテーマに反れた作品を提出した
りした。毎回、作品再提出を言い渡された。
淡い色を出すため、画用紙を水で濡らし、薄い色の水彩絵の具を散らし提出した
際も、「うちの学校では、ポスターカラーで描くように決まってるだろ!
貧弱な女々しい絵なんか描くな!再提出!」である。
通知表で2だった際には、抗議しに行った。明らかに個人的感情から、生徒の
評価している態度が気に食わなかった。
抗議したら、教師は「お前が絵を描ける
能力あるのは認めよう。しかし、授業で技術のひけらかしや、
目立とうとする姿勢は、うっとおしい」と言って来た。
型にはまった、決まりきった退屈な絵を描くのが、美術だと思っている
教師に失望した。その教師が文化祭で出展した作品を見たが、
全く持って面白みが無く、誤魔化しが多い画風だった。
絵1枚の中に集中力が分散され、細かい部分は丁寧だが、全体的に雑だった。
高校3年間で画家を目指すプライドは、ズタズタにされ、絵を描くたび
思い出す教師の嫌味から、しだいに画家への夢が薄れてきた
でも、決まり、枠、ルールなどにとらわれず、創作する姿勢はラーメン
へと受け継がれていると思います。