新宿の大繁盛店「竈」の店主は清水博丈さんです。
1967年生まれ
神奈川県出身
1983年に国学院久我山高校に入学し、高校1年で
東京中のラーメン屋を食べ尽くしました。高校2年では
名古屋、大阪、福岡、広島などまで遠征しラーメン食べ
歩きに専念していたラーメンフリークでした。
1986年に国学院大学文学部史学科に進学してからは
全国の有名店全店制覇をし、沖縄、佐賀、鹿児島以外の
ラーメンは食べ尽くした。また、フランス料理、イタリア
料理も数多く食べ、毎月40万円を食べ歩きに使った。
大学2年の時に「吉村家」の流れをくむ横浜家系のラーメン
店でバイトをした。そのバイト経験で、ラーメン屋経営の
厳しさとリスクの多さを勉強した。衝撃的なのが、
その店主は借金の返済に苦しみ自殺をした。
1990年國學院大學を卒業し、会社員生活をはじめる。
不動産会社、水産会社、家具輸入商社を経て、
1998年からラーメン修行をはじめる。
池袋の人気店「屯ちん」で4ヶ月バイトをする。辞めて次に
池袋の行列店「光麺」で2ヶ月修行を積み辞める。
そして、日本一の行列店「麺屋武蔵」で半年修行を積む。
無難な万人受けはやりたくなく、個性を全面に打ち出した
ラーメンで独立をする。清水さんは言う「10人中9人が
苦手だと言ってもいい。残る1人が徹底的にはまるラーメン
を作る」。そのコンセプトと、お洒落なラーメン・レストラン
イメージで「麺屋武蔵」から徒歩5分の激戦区に店を構える。
1998年に開店し、開店記念の半額セール期間には順調な
客入りだった。しかし、セール後は急激に落ち込んだ。
「麺屋武蔵」からマスコミを紹介してもらい、度々雑誌で
取り上げてもらうも、単発的に客が増えるだけで、しばらく
するとアイドルタイムの数時間は誰1人来ない状況になって
いった。損益分岐点が1日8万円だった時、店を開けるたび
に6万円づつ損をする赤字経営が続いた。
ターニングポイントになったのは2000年「TVチャンピョン
第6回ラーメン王選手権」で優勝者の山本剛志さんが新店推薦
という形で紹介し、「どっちの料理ショー」でも紹介された。
この2番組の影響は大きく、開店前から数十人の行列が品切れ
閉店までつづいた。売上は10倍近く跳ね上がったら新たな
問題がでてきた。
長蛇の大行列に連日近隣からのクレームが来るようになった。
この行列が切れない事を信じ、近所の広い物件に移転をした。
床は大理石を使用しアイルランドのパブをイメージした店が
出来た。お洒落な店内に合わせプリンや、アルコールを充実
させた。
清水さんはマスコミ効果の凄さを痛感し、その後もマスコミ人
との関係を深めていった。
忙しくなってから、清水さんを一番悩ませている問題が従業員
の育成である。考えが合わずに辞めたり、優秀なスタッフが
退職したりした。ざらにあったのが、数日来たかと思えば、
何の連絡も無しに来なくなるケースらしい。
「竈」の人気を支えている要因に、ネットのラーメンフリーク
との交流を深めた事が働いている。普段は「麺屋武蔵」に出入り
しているフリーク達が、「麺屋武蔵」で働いていた事を知っていて
大々的にネット宣伝をしてくれたという。清水さんはネットの
ラーメンフリークには名刺を渡し、来店してくれた日には必ず
お礼のメールを送信していたらしい。ラーメンフリークとの
関係を強化した事もあり、ネット上でのラーメンランキングで
は常に上位を独占していた。
ネットの集客効果の大きさを知って、自らホームページを
作成し情報発信を行った。
ただ、ネットにはデメリットもあったと清水さんは言う。
「ネットの評価が高い
だけに、来る客の事前期待も高かった。大きく膨らんだ期待
にそぐわなければ「期待はずれ」「マズイ」とすぐに書き
込まれる始末。何も考えずに純粋に食べれば美味しいラーメン
も、情報肥大化の悪影響がでている。」
2001年に本が書かれた当時は、繁盛店の仲間入りをして
いる。今はどうなのかは僕はしりません。
1967年生まれ
神奈川県出身
1983年に国学院久我山高校に入学し、高校1年で
東京中のラーメン屋を食べ尽くしました。高校2年では
名古屋、大阪、福岡、広島などまで遠征しラーメン食べ
歩きに専念していたラーメンフリークでした。
1986年に国学院大学文学部史学科に進学してからは
全国の有名店全店制覇をし、沖縄、佐賀、鹿児島以外の
ラーメンは食べ尽くした。また、フランス料理、イタリア
料理も数多く食べ、毎月40万円を食べ歩きに使った。
大学2年の時に「吉村家」の流れをくむ横浜家系のラーメン
店でバイトをした。そのバイト経験で、ラーメン屋経営の
厳しさとリスクの多さを勉強した。衝撃的なのが、
その店主は借金の返済に苦しみ自殺をした。
1990年國學院大學を卒業し、会社員生活をはじめる。
不動産会社、水産会社、家具輸入商社を経て、
1998年からラーメン修行をはじめる。
池袋の人気店「屯ちん」で4ヶ月バイトをする。辞めて次に
池袋の行列店「光麺」で2ヶ月修行を積み辞める。
そして、日本一の行列店「麺屋武蔵」で半年修行を積む。
無難な万人受けはやりたくなく、個性を全面に打ち出した
ラーメンで独立をする。清水さんは言う「10人中9人が
苦手だと言ってもいい。残る1人が徹底的にはまるラーメン
を作る」。そのコンセプトと、お洒落なラーメン・レストラン
イメージで「麺屋武蔵」から徒歩5分の激戦区に店を構える。
1998年に開店し、開店記念の半額セール期間には順調な
客入りだった。しかし、セール後は急激に落ち込んだ。
「麺屋武蔵」からマスコミを紹介してもらい、度々雑誌で
取り上げてもらうも、単発的に客が増えるだけで、しばらく
するとアイドルタイムの数時間は誰1人来ない状況になって
いった。損益分岐点が1日8万円だった時、店を開けるたび
に6万円づつ損をする赤字経営が続いた。
ターニングポイントになったのは2000年「TVチャンピョン
第6回ラーメン王選手権」で優勝者の山本剛志さんが新店推薦
という形で紹介し、「どっちの料理ショー」でも紹介された。
この2番組の影響は大きく、開店前から数十人の行列が品切れ
閉店までつづいた。売上は10倍近く跳ね上がったら新たな
問題がでてきた。
長蛇の大行列に連日近隣からのクレームが来るようになった。
この行列が切れない事を信じ、近所の広い物件に移転をした。
床は大理石を使用しアイルランドのパブをイメージした店が
出来た。お洒落な店内に合わせプリンや、アルコールを充実
させた。
清水さんはマスコミ効果の凄さを痛感し、その後もマスコミ人
との関係を深めていった。
忙しくなってから、清水さんを一番悩ませている問題が従業員
の育成である。考えが合わずに辞めたり、優秀なスタッフが
退職したりした。ざらにあったのが、数日来たかと思えば、
何の連絡も無しに来なくなるケースらしい。
「竈」の人気を支えている要因に、ネットのラーメンフリーク
との交流を深めた事が働いている。普段は「麺屋武蔵」に出入り
しているフリーク達が、「麺屋武蔵」で働いていた事を知っていて
大々的にネット宣伝をしてくれたという。清水さんはネットの
ラーメンフリークには名刺を渡し、来店してくれた日には必ず
お礼のメールを送信していたらしい。ラーメンフリークとの
関係を強化した事もあり、ネット上でのラーメンランキングで
は常に上位を独占していた。
ネットの集客効果の大きさを知って、自らホームページを
作成し情報発信を行った。
ただ、ネットにはデメリットもあったと清水さんは言う。
「ネットの評価が高い
だけに、来る客の事前期待も高かった。大きく膨らんだ期待
にそぐわなければ「期待はずれ」「マズイ」とすぐに書き
込まれる始末。何も考えずに純粋に食べれば美味しいラーメン
も、情報肥大化の悪影響がでている。」
2001年に本が書かれた当時は、繁盛店の仲間入りをして
いる。今はどうなのかは僕はしりません。