古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

前方後円墳が壺形古墳でないとすると(前方後円墳の考察③)

2021年08月29日 | 前方後円墳
前方後円墳は壺形古墳であるという説を検討するにあたって卑弥呼と前方後円墳の関係性について考えているところですが、壺形古墳説以外の説(Wikipediaなどで確認した範囲で)に対しての私の考えを書いておきます。

まず、方形または円形周溝墓の陸橋部分が発展して前方部になったという説ですが、下図はこの説を唱える白石太一郎氏の著書に掲載される図です。


(白石太一郎著「古墳とヤマト政権」より)

氏は「本来は周溝をもつ方形ないし円形の墳丘墓の墳丘と外部をつなぐ通路上の部分が次第に発達したものにほかならない」と断定する一方で「主たる墳丘に至る通路が、なぜ発達し、それが墳丘と一体化していったかは必ずしも明らかではない」「おそらく死者の世界と生者をつなぐこの部分が、次第に祭祀・儀礼の場とし重視されるようになったのであろう」とします。

この図を見て疑問に思うのは、C類の段階でなぜ周溝が墳丘を取り囲んでしまったのか、ということです。祭祀・儀礼の場として重視されたのであれば、もともとあった通路がないとその場に辿り着くことはできません。船で渡るという面倒なことをしたのでしょうか。

また、時代は下りますが、奈良県磯城郡にある島の山古墳や同じく奈良県御所市の室宮山古墳、大阪府堺市の大山古墳などは、祭祀・儀礼の場である前方部に埋葬施設を持っており、これをどのように考えるべきか悩みます。もっとも、これらの古墳が築造された古墳時代中期以降は天皇陵や首長墓といった大規模な古墳の場合は祭祀・儀礼の場として造り出し部が設けられるようになったので、前方部が埋葬施設として利用されたという考えも成り立ちそうですが。

さらに、A類の段階では通路幅は平行であるのにB類の段階あるいはC類の段階では通路下側の幅が広くなって台形に変化しています。つまり前方部がバチ形に開いていますが、その理由は不明です。またこの図によると前方後円墳は周濠があることが前提となって誕生したことになりますが、山の上に築かれたり、尾根を切り出して形成された場合など、そもそも溝を掘れないようなところにも古墳が築造されています。以上のことから、私はこの説にあまり説得力を感じることができません。

次に、ウィリアム・ゴーランドが唱えたとされる円墳と方墳が合体したとする説については、その著書が手に入らないために具体的な内容を知ることができないのですが、私はこの説の存在を知る前から前方後円墳は単純に円墳と方墳が合体したものではないかと考えたことがありました。というのも、お墓を造るとき(遺体を埋葬するとき)、素直に考えると円形か長方形に土を盛るだろう、そして大和政権として新しい統治体制の誕生に伴って新しい墓制を考えるときに、単純にこの二つを合体させたのではないかと考えた次第です。

ところが、前方後円墳の前方部は正確には方形ではなく台形、あるいは片方が少し開いたバチ形なので、そもそも方墳ではないという単純な理由からこの考えから離れることになりました。台形墳やバチ形墳などが存在していれば可能性としては考え得るところですが、残念ながらそれはないようです。これと似たような論として主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったとする説もあるようですが、内容がわからないので何とも言いようがありません。ただし、いずれの説も前方部に埋葬施設があることの説明はできそうです。

一方、死者を祀る祭壇あるいは拝所として前方部が形成されたとする考えは、可能性としては大いにありと思います。前方部が祭祀・儀礼の場という点においては、周溝墓の陸橋が発達して前方部を形成しながら祭祀・儀礼の場になっていったと考える白石説と似た考えだと思いますが、こちらの場合は被葬者が埋葬された円丘部の手前に方形の祭壇を造って被葬者を拝んでいた、あるいは何らかの祭祀を執り行っていたとするもので、この場合は祭壇が最初から台形であったと考えれば前方部の形の問題はなくなります。箸墓古墳では底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器が前方部上で採集されているので、ここで何らかの祭祀が行われた可能性がありそうです。3世紀後半の築造とされる奈良県天理市の西殿塚古墳では前方部頂上に方形壇が認められ、祭祀の場であったと思われます。しかし、この場合も祭祀場に行くために周濠を渡る必要があること、前方部に埋葬施設があることなどに対する疑問は白石説と同じです。

最後に、中国の天円地方の観念(円は神が住む天上界を表し、方は人間が住む地上界を表すという考え)を具現化したものとする説については、なるほどそういうことか、と妙に納得してしまいました。しかしよく考えれば、天円地方というならば素直に上円下方墳で良いではないか、そもそも中国にはこの形(前方後円形)の墓はないぞ、と思い直したのです。またこの場合も、前方部に埋葬施設があることの説明ができないし、方形部が正方形でないことも疑問として残ります。


以上、それぞれの説を深く考察したわけではなく、しかも素人の私が専門家の説に疑問を呈するのは大変失礼なことだと思いますが、どの説にも十分な納得が得ることができないというのが正直なところです。そんなこともあって興味の湧いた壺形古墳説を考えてみようと思った次第です。








↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前方後円墳は壺形古墳か?(前方後円墳の考察②)

2021年08月26日 | 前方後円墳
前方後円墳について考え始めてから半月が経過しました。あれこれと調べたり本を読んだりしているところですが、現時点では「壺形古墳説」に興味があります。このあたりで思考の途中経過を書いてみます。

弥生時代後期後半の3世紀以降、国内各地において前方後円形の墳墓が造営されるようになります。築造時期が4世紀に下らないことがほぼ確実なものとして、

千葉県市原市の神門5号墳(3世紀前半または中葉)
神奈川県海老名市の秋葉山3号墳(3世紀後半)
静岡県沼津市の高尾山古墳(3世紀前半から半ば)
京都府木津川市の椿井大塚山古墳(3世紀末)
奈良県桜井市にある纒向石塚古墳(3世紀前半または中頃)・纒向矢塚古墳(3世紀中頃より以前)・纒向勝山古墳(3世紀前半から後半)・箸墓古墳(3世紀中頃から後期)
兵庫県姫路市の山戸4号墳(3世紀前半)
岡山県岡山市の矢藤治山古墳(3世紀半ば)・浦間茶臼山古墳(3世紀末)
徳島県鳴門市の萩原2号墓(3世紀前葉)
愛媛県西条市の大久保1号墳(3世紀前半)
福岡県福岡市の那珂八幡古墳(3世紀中葉)
大分県宇佐市の赤塚古墳(3世紀末)

などがあります。カッコ内の築造時期はネットで調べうる範囲で、調査報告書や教育委員会など公的機関の情報をもとにした時期を入れています。

各墳墓の築造時期を早い方で見ると3世紀前半において、千葉県、静岡県、奈良県、兵庫県、徳島県、愛媛県の各地に前方後円形墳墓が築造され、さらに3世紀中頃になるとここに岡山県や福岡県が加わります。つまり、誕生からわずか半世紀ほどの間に関東から北部九州にわたる広い範囲で前方後円形墳墓あるいは前方後円墳が築かれたということになります。

一方、中国史書から窺える弥生時代後期の日本の状況は以下の通りです。2世紀後半、後漢書によると桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)に起こった倭国大乱を収めるために女王卑弥呼が共立されました。190年頃と考えて差し支えないと思います。さらに魏志倭人伝には、正始8年(247年)に倭国が狗奴国と戦闘状態に入ったことを報告したあと、卑弥呼が死去したことが記されます。250年頃のことでしょうか。倭人伝によると、卑弥呼は鬼道を用いてよく衆を惑わした(事鬼道能惑衆)とあります。倭国大乱に参戦した各クニは戦争を終息させるために鬼道を用いる卑弥呼を共通の王として担いで連合国家を形成した、ということだと思います。

このふたつの事実は、前方後円墳は卑弥呼の治政のときに誕生して各地に広まった、ということを物語っていて、卑弥呼と前方後円墳に何らかの関係性を認めることに一定の合理性があるように思うのです。つまり、卑弥呼が女王になったことがきっかけで前方後円墳が誕生したのではないかということです。

倭国大乱を収めるために共立された卑弥呼は王として相応しい人物であった。卑弥呼が王であれば互いに争うことなく、まとまることができる。共立に参画した各クニの首長は皆がそう考えたはずです。卑弥呼を王とした認めた理由はいったい何だったのでしょうか。

さて、ここから先に思考を進めるうえで押さえておくべきこと、すなわち卑弥呼と前方後円墳の関係性を考えるにあたっての前提がひとつあります。それは、3世紀前半の時点で少なくとも愛媛県や徳島県、兵庫県姫路市など瀬戸内海沿岸に前方後円形墳墓が登場していることから、倭国の範囲は九州エリアにとどまらず、少なくとも西日本一帯を視野に入れて考える必要があるということです。

話を卑弥呼に戻すと、卑弥呼が王として認められた理由は魏志倭人伝の卑弥呼の素性が書かれた次の文(青字部分)から探すほかはないと思われます。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

卑弥呼の人物像として「事鬼道能惑衆」「年已長大」「無夫婿」「有男弟」「以婢千人自侍」などが書かれていますが、注目すべきはやはり「事鬼道能惑衆」ですね。卑弥呼は「鬼道」によって倭国を統治したと考えられます。つまり卑弥呼を共立した各クニの首長は卑弥呼の「鬼道」による統治を望んだのです。「鬼道」こそが倭国をまとめる最善の方法であるとの考えで一致したのです。

卑弥呼の鬼道とはどういうものだったのでしょうか。よく言われるように道教のことを指すのでしょうか。今は思考が行ったり来たりしているところなので、今回はこのあたりにしておきます。








↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前方後円墳って。(前方後円墳の考察①)

2021年08月14日 | 前方後円墳
前方後円墳がどのようしてできたのか、なぜ鍵穴のような形になったのか、あの形には何か意味があるのか、、、、以前から何となく疑問を持っていたものの、あまり深く考えずにここまで来ました。このあたりで改めて自分の頭で考えてみようと思いました。

以下にWikipediaの「前方後円墳」の説明から一部を引用します。(青字部分)

古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。

3世紀中ごろ、大和地方の纒向(現・奈良県桜井市)に巨大都市が出現し、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳を築造する。これをもって古墳時代の始まりとする。その後日本各地に同じ形の墳墓が築造されていった。

「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。



実はこれまで「前方後円墳」という言葉を当たり前のように使って来たものの「前方後円」という表現にずっと違和感がありました。それは「前にあるのが円で、方は後ろではないのか」という疑問です。もしかすると、ここに引っかかる人ってあまりいないのかも知れませんが、たとえば、よくある前方後円墳の写真(後円部が上になっているまさに鍵穴形の写真)を飛行機の絵だと思うと、操縦席がある飛行機の前の部分が上、つまり円の部分にあたるのです。だから、前方と後円は逆ではないかとずっと思ってきました。そんな子供のような疑問を払しょくするために発想を変えて、手前にあるのが方=前が方、だと思うようになったのがわずか数年前のことです。

Wikipediaにあるとおり、前方後円という言葉を編み出したのが江戸時代の蒲生君平ですが、私の勘違いはさておいたとしても、この言葉はこの古墳を考えるにあたっての自由な発想を阻害してきたように思います。それこそ「前円後方」かもわからないし、「右方左円」かもわからない。考古学者の石野博信さんは突出部のついた円墳という意味で「長突円墳」という言葉を使っていますが、その意図は理解できます。

さて、この前方後円墳がどのようにして出来上がって来たのか、つまりその起源については次のように様々な説が唱えられています。

まず、弥生時代の円形あるいは方形の周溝墓の陸橋部分(通路部分)が発達したものとする説があります。死者の世界と生者の世界をつなぐこの部分が祭祀・儀礼の場として重視され、次第に大型化し墳丘部と一体化したとする考えです。奈良県橿原市の瀬田遺跡で弥生時代終末期の前方後円形の円形周溝墓が発見され、前方後円墳の原型と考える研究者がいます。

次に、弥生後期に各地で造営された墳丘墓の要素を寄せ集めた墳墓とする説。墳墓の形は吉備にある双方中円形の楯築墳丘墓を原形として、同じく吉備の特殊器台をもとに円筒埴輪を創出し、出雲の四隅突出型墳丘墓の葺石を取り入れ、石槨や石囲い木槨は讃岐の積石塚に由来する、といった具合です。この状況は魏志倭人伝にある卑弥呼共立に符合することから、前方後円墳が大和で誕生したという前提に立つと、邪馬台国大和説につながる考えであるともいえます。

さらに、幾多の考古学的知見が蓄積される以前の明治時代に、円墳と方墳が合体したとする説が「日本考古学の父」とも言われるウィリアム・ゴーランドによって唱えられました。この説に対しては、方墳は正方形または長方形であるものの、前方後円墳の方形部は撥形あるいは台形になっていることから、単純な合体によるとは考えにくいと思われます。合体説としては、主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったとする説もあるようです。

また、弥生墳丘墓の突出部が変化して、死者を祀る祭壇あるいは拝所として前方部が形成されたとする説や後円部に至る墓道が大型化して前方部になったとする説、中国の天円地方の観念(円は神が住む天上界を表し、方は人間が住む地上界を表すという考え)を具現化したものとする説などがあり、ほかにも壺形土器の形や瓢の形、家屋の形、盾の形を模倣したというような説もあります。壺形説の中には、古代ユダヤの伝説にあるイスラエル王国の三種の神器のひとつ「マナの壺」を象ったものという説まであります。

邪馬台国が大和にあったと考える私としては上記の2番目の説、つまり各地の墳丘墓の要素を取り入れて出来上がった墳墓であるという考えに同調し、納得していました。一方で、この考えに拠ったとして、前方後円墳の出現に関する次のような疑問に対する答えがないことにもどかしさを感じていました。

疑問①
最近は前方後円墳の出現期を3世紀中頃とする考えが有力ですが、この出現期の前方後円墳(あるいは前方後円形の墳丘墓)や古墳時代前期前半(4世紀前半)の築造とされる前方後円墳が全国各地に存在するのはどうしてだろうか。各地で同時多発的に発生したのか、それともわずか半世紀ほどのスピードで全国に広まったのでしょうか。

疑問②
前方後円墳と同時期(あるいはそれよりも早い時期とされる場合もある)に発生した前方後方墳はどのように位置づけることができるのでしょうか。前方後円墳とはまったく別物なのか、それとも同じ由来を持つのか。

疑問③
一般的には埋葬施設は後円部に設けられていて、前方部は祭祀や儀礼の場、あるいは参道が発達したものとする説が有力ですが、この前方部に埋葬施設をもつ大型古墳(たとえば仁徳陵とされる大山古墳)がいくつも存在することをどう考えるべきでしょうか。

疑問④
大型の前方後円墳は見せるための墳墓だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか。現代のように上から見ることができない以上、横からの姿を見せるということになるのですが、それなら前方後円という形にあまり意味がないように思うのです。


前方後円墳の起源について、これらの疑問に答えることができて初めて自分としての納得が得られるように思ったので、少し時間をかけて自分の頭で考えてみることにしました。

今日のところはここまでとします。






↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする