景行53年、日本武尊の平定した諸国を巡幸したいと考えた天皇は伊勢から東海道に入った。上総国から海路で淡(安房)の水門に着いた。淡水門は弟橘姫が入水した馳水(はしるみず)、つまり浦賀水道であろう。東国からの帰りに伊勢に立ち寄り、綺宮(かにはたのみや)に留まった。綺宮は三重県鈴鹿市加佐度町に跡地がある。近くに日本武尊の墓である能褒野王塚古墳があるので、天皇は子の地でわが子を偲んだのであろう。そして翌年、大和の纒向宮に戻り、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道15国の都督(かみ)に任じた。彦狭島王は豊城命の孫であるが、書紀には豊城命は崇神天皇のときに東国に派遣され、上毛野君、下毛野君の先祖になったとある。しかし彦狭島命は赴任前に亡くなったので、子の御諸別王(みもろわけのみこ)が後任として派遣された。任期中、蝦夷が騒いだので兵を送ったところ、蝦夷の首領たちが降伏してきた。御諸別王は降伏する者を許し、服従しないものを誅殺した。東国はこのあと久しく事が起こることがなかった。
景行57年、天皇は諸国に田部と屯倉を作らせた。田部は天皇家の田で、屯倉は天皇家の直轄領のことである。日本武尊の活躍もあって支配の及ぶ地域が全国に広がったための措置であろう。翌年、天皇は近江国に行幸し志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に3年間滞在した。そしてその地で崩御された。高穴穂宮はその後、成務天皇が60年、仲哀天皇が1年、宮として暮した。滋賀県大津市穴太にある高穴穂神社がその跡地とされるが、天皇はなぜここに宮を設けたのだろうか。
高穴穂宮は琵琶湖の南西部、比叡山の東麓にある。すぐ近くには天智天皇の近江京(近江大津宮)があることから、これをもとにした創作であろうとの説があるが、私はここに三代の天皇が住んだかどうかは定かではないが、何らかの拠点があったのではないかと考える。琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川は宇治川から淀川となって河内湖に流れ込み、そのまま瀬戸内海に通じる。そして先に見たように、琵琶湖対岸の北東部には天敵の息長氏が居を構えている。息長氏は近江から北へ抜けて敦賀から日本海へと出るルートを押さえていたので、この南のルートを押さえられると大和は孤立することになってしまう。景行天皇はそれを恐れて高穴穂に拠点を設けたのではないだろうか。
息長氏の拠点である近江国坂田郡は琵琶湖東岸、現在の長浜市、米原市、彦根市の広範囲にわたっており、さらに琵琶湖の水運をも押さえていたであろう。また、琵琶湖の南東地域は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍の渡来に同行してきた陶人(すえひと)が住んだのが鏡邑であり、現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村とされる。さらに少し南西にある草津市穴村町は天日槍が住んだとされる吾名邑と考えられている。そして、この息長氏と天日槍によるふたつの勢力圏のちょうど中間地点で発見されたのが稲部遺跡である。彦根市教育委員会の資料をもとに稲部遺跡を詳しく見てみよう。
稲部遺跡は彦根市稲部町、彦富町にまたがる微高地に位置し、弥生時代後期中葉から古墳時代中期にかけて栄えた巨大集落遺跡である。その広さは20万㎡におよぶ。また、遺跡周辺は弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡が密集する地域でもある。各地の土器が出土しており、その範囲は大和、伯耆、越前、美濃、伊勢、尾張、駿河などにおよび、この集落が広範囲にわたる各地と交流がなされていたことがわかる。また、韓式系土器も出ており、朝鮮半島との交流も窺える。韓式系土器とは、三国時代(3~7世紀)の朝鮮半島南部地域から渡来人が持ち込んだり、すでに日本に居住していた人が半島の土器を真似て作った土器のことである。
青銅器の鋳造や朝鮮半島から運ばれた鉄素材をもとに鉄器の大規模な生産を行うとともに、大型建物や100㎡を超える超大型建物、独立棟持柱建物という首長層の居館と考えられる建物や儀礼に使用されたと考えられる建物と区画が時代を経るごとに出現する。政治都市や祭祀都市としての面を強く持ち、工業都市としての面も併せ持つ近江の巨大勢力の中枢部である。
弥生時代終末期から古墳時代前期にかけては、3棟の大型建物が検出され、集落の中心的な儀礼空間と考えられる。近くの大溝跡からは韓式系土器が出土。さらに方形区画の内側に大型建物、区画の南側には大規模な鍛冶工房群と考えられる23棟以上の竪穴建物が見つかり、ここで鉄器の生産が行われた。その後、古墳時代前期前半から後半にかけて、方形区画を切ってさらに新しい大型建物2棟、超大型建物3棟が柵あるいは塀を伴って出現する。これらは倉庫や儀礼施設、あるいは首長層の居館と考えられる。最も大きい建物は188㎡あり、纒向遺跡の超大型建物(約238㎡)に次ぐ当時の国内屈指の規模である。
「天日槍の王国」「天日槍と大丹波王国」に書いた通り、新羅から渡来した天日槍とその後裔一族は但馬を拠点に播磨、宇治、近江、若狭と、近畿北部のほぼ全域にわたる一大王国を築いた。そして近江においては息長氏と婚姻関係を築き、生まれたのが天日槍の七世孫である息長帯比売命、すなわち神功皇后である。稲部遺跡は弥生時代終末期から繁栄を始めたという。天日槍が渡来した垂仁天皇の時期から次の景行天皇の時期にあたる。その景行天皇の時、日本武尊が全国平定の仕上げとして出向いた近江の伊吹山で山の神に敗れた。この伊吹山での一戦が大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しており、崇神王朝が丹波・近江勢力に敗北を喫したことが後の神功皇后、応神天皇による政権交代につながるきっかけになったということはすでに書いた。その崇神王朝の都であった纒向に匹敵する大型建物や製鉄工房をもつ巨大集落であり、息長氏の本貫地と天日槍一族の近江における勢力地の中間地点にある稲部遺跡は、この丹波・近江連合勢力の拠点ではなかっただろうか。
丹波・近江連合勢力は琵琶湖の東側の北から南までの全域を押さえた。この一帯は北へ抜ければ日本海、東へは尾張、美濃から東国へ通じ、先述の通り、瀬田川を下れば難波から瀬戸内海、さらにその先には九州、朝鮮半島がある。まさに日本列島の中心地、列島の要衝の地である。崇神王朝は大和の奥津城に引っ込んでいる場合ではなかったのだ。
景行天皇が高穴穂に宮を移して以降、崇神、垂仁、景行と続いた纒向に宮が戻ることはなかった。石野博信氏によると、2世紀末に突如として現れた纒向遺跡は4世紀中頃に突然に消滅したという。景行天皇がその晩年に高穴穂宮に遷都した時期と重なる。
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景行57年、天皇は諸国に田部と屯倉を作らせた。田部は天皇家の田で、屯倉は天皇家の直轄領のことである。日本武尊の活躍もあって支配の及ぶ地域が全国に広がったための措置であろう。翌年、天皇は近江国に行幸し志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に3年間滞在した。そしてその地で崩御された。高穴穂宮はその後、成務天皇が60年、仲哀天皇が1年、宮として暮した。滋賀県大津市穴太にある高穴穂神社がその跡地とされるが、天皇はなぜここに宮を設けたのだろうか。
高穴穂宮は琵琶湖の南西部、比叡山の東麓にある。すぐ近くには天智天皇の近江京(近江大津宮)があることから、これをもとにした創作であろうとの説があるが、私はここに三代の天皇が住んだかどうかは定かではないが、何らかの拠点があったのではないかと考える。琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川は宇治川から淀川となって河内湖に流れ込み、そのまま瀬戸内海に通じる。そして先に見たように、琵琶湖対岸の北東部には天敵の息長氏が居を構えている。息長氏は近江から北へ抜けて敦賀から日本海へと出るルートを押さえていたので、この南のルートを押さえられると大和は孤立することになってしまう。景行天皇はそれを恐れて高穴穂に拠点を設けたのではないだろうか。
息長氏の拠点である近江国坂田郡は琵琶湖東岸、現在の長浜市、米原市、彦根市の広範囲にわたっており、さらに琵琶湖の水運をも押さえていたであろう。また、琵琶湖の南東地域は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍の渡来に同行してきた陶人(すえひと)が住んだのが鏡邑であり、現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村とされる。さらに少し南西にある草津市穴村町は天日槍が住んだとされる吾名邑と考えられている。そして、この息長氏と天日槍によるふたつの勢力圏のちょうど中間地点で発見されたのが稲部遺跡である。彦根市教育委員会の資料をもとに稲部遺跡を詳しく見てみよう。
稲部遺跡は彦根市稲部町、彦富町にまたがる微高地に位置し、弥生時代後期中葉から古墳時代中期にかけて栄えた巨大集落遺跡である。その広さは20万㎡におよぶ。また、遺跡周辺は弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡が密集する地域でもある。各地の土器が出土しており、その範囲は大和、伯耆、越前、美濃、伊勢、尾張、駿河などにおよび、この集落が広範囲にわたる各地と交流がなされていたことがわかる。また、韓式系土器も出ており、朝鮮半島との交流も窺える。韓式系土器とは、三国時代(3~7世紀)の朝鮮半島南部地域から渡来人が持ち込んだり、すでに日本に居住していた人が半島の土器を真似て作った土器のことである。
青銅器の鋳造や朝鮮半島から運ばれた鉄素材をもとに鉄器の大規模な生産を行うとともに、大型建物や100㎡を超える超大型建物、独立棟持柱建物という首長層の居館と考えられる建物や儀礼に使用されたと考えられる建物と区画が時代を経るごとに出現する。政治都市や祭祀都市としての面を強く持ち、工業都市としての面も併せ持つ近江の巨大勢力の中枢部である。
弥生時代終末期から古墳時代前期にかけては、3棟の大型建物が検出され、集落の中心的な儀礼空間と考えられる。近くの大溝跡からは韓式系土器が出土。さらに方形区画の内側に大型建物、区画の南側には大規模な鍛冶工房群と考えられる23棟以上の竪穴建物が見つかり、ここで鉄器の生産が行われた。その後、古墳時代前期前半から後半にかけて、方形区画を切ってさらに新しい大型建物2棟、超大型建物3棟が柵あるいは塀を伴って出現する。これらは倉庫や儀礼施設、あるいは首長層の居館と考えられる。最も大きい建物は188㎡あり、纒向遺跡の超大型建物(約238㎡)に次ぐ当時の国内屈指の規模である。
「天日槍の王国」「天日槍と大丹波王国」に書いた通り、新羅から渡来した天日槍とその後裔一族は但馬を拠点に播磨、宇治、近江、若狭と、近畿北部のほぼ全域にわたる一大王国を築いた。そして近江においては息長氏と婚姻関係を築き、生まれたのが天日槍の七世孫である息長帯比売命、すなわち神功皇后である。稲部遺跡は弥生時代終末期から繁栄を始めたという。天日槍が渡来した垂仁天皇の時期から次の景行天皇の時期にあたる。その景行天皇の時、日本武尊が全国平定の仕上げとして出向いた近江の伊吹山で山の神に敗れた。この伊吹山での一戦が大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しており、崇神王朝が丹波・近江勢力に敗北を喫したことが後の神功皇后、応神天皇による政権交代につながるきっかけになったということはすでに書いた。その崇神王朝の都であった纒向に匹敵する大型建物や製鉄工房をもつ巨大集落であり、息長氏の本貫地と天日槍一族の近江における勢力地の中間地点にある稲部遺跡は、この丹波・近江連合勢力の拠点ではなかっただろうか。
丹波・近江連合勢力は琵琶湖の東側の北から南までの全域を押さえた。この一帯は北へ抜ければ日本海、東へは尾張、美濃から東国へ通じ、先述の通り、瀬田川を下れば難波から瀬戸内海、さらにその先には九州、朝鮮半島がある。まさに日本列島の中心地、列島の要衝の地である。崇神王朝は大和の奥津城に引っ込んでいる場合ではなかったのだ。
景行天皇が高穴穂に宮を移して以降、崇神、垂仁、景行と続いた纒向に宮が戻ることはなかった。石野博信氏によると、2世紀末に突如として現れた纒向遺跡は4世紀中頃に突然に消滅したという。景行天皇がその晩年に高穴穂宮に遷都した時期と重なる。
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